オルペウスの冥府下り

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ギリシャ神話に、オルペウスの冥府下りのお話があります。

妻のエウリュディケーが、蛇にかまれて亡くなります。オルペウスは、妻を取り戻すために冥府に降ります。オルペウスの弾く竪琴の音色に、冥界の人々は魅了され、遂に冥界の王ハーデースとその妃ペルセポネーに会うことができます。そこでも、竪琴を弾き、遂に妻エウリュディケーを連れ戻すことを許可されます。ただし、地上に帰り着くまで後ろを振り向かないという条件が出されます。オルペウスは、妻を連れて現世に戻る途中、後ろを振り向いてしまい、エウリュディケーは再び冥府に戻されてしまいます。

このお話、どこかで聞いたことがありますね。そう、イザナギノミコトがイザナミノミコトを黄泉の国から連れ戻そうとするお話に酷似しています。どこかで、繋がりがあるのでしょうか?また、オルペウスは、以前ご紹介した輪廻と解脱を説くオルペウス教の開祖と見なされています。

画像:オルペウス
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9

他戸親王(おさべしんのう)

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前回、時代が移る中で、上御霊神社の祭神のうち伊予親王と藤原仲成が、井上大皇后と他戸親王に変わったというお話をしました。井上大皇后と他戸親王は、どうして怨霊となられたのでしょうか。

他戸親王は、光仁天皇の子で、異母兄弟が山部親王(後の桓武天皇)になります。井上大皇后は、他戸親王の母になります。光仁天皇が即位した次の年、他戸親王は皇太子になります。しかし、翌年、井上大皇后が夫の光仁天皇を呪ったという嫌疑をかけられ、皇后を廃され、息子の他戸親王も皇太子を廃されます。そのあとも嫌疑が続き、結局、井上大皇后と他戸親王は、幽閉され、二人とも急死します。

山部親王を皇太子にしようと画策していた藤原良継や藤原百川による策略が、疑われています。その結果、山部親王は皇太子となり、その後桓武天皇となります。天変地異が続いたため、井上大皇后と他戸親王の怨霊が恐れられました。桓武天皇は、同母弟の早良親王の怨霊にも悩まされますので、二人の弟の怨霊を鎮める必要があったようです。

画像:他戸親王
画像出所:上御霊神社
http://goryojinja.or.jp/profile/osabe-shinnou-bo

上御霊神社

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上御霊神社は、863年、神泉苑の御霊会で慰霊された、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田麿らの六所御霊が祀られました。これは、以前ご紹介した下御霊神社と同じです。

ところが、その後、祭神のうち伊予親王と藤原仲成が、井上大皇后と他戸親王に変わりました。理由はよくわかりません。また、火雷神と吉備大臣が追加されましたが、これは下御霊神社も同じです。そのため、現在、両神社で八所御霊が祀られていますが、二神が異なっています。また、火雷神と吉備大臣は、恨みを残して亡くなっていませんので、なぜ加わったのかは不思議です。火雷神を菅原道真さんとする説がありましたが、現在は否定されています。吉備大臣は、一度左遷されていますが、その後復権していますので、やすらかに亡くなられたと思います。

話は変わりますが、上御霊神社は、畠山氏の後継者争いの戦いが行われ、応仁の乱の発祥の地として有名です。

画像:上御霊神社
画像出所:京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=7&tourism_id=291

中国の神仙思想と日本の山中他界観

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神仙思想は、中国の周末・戦国時代に唱えられた思想で、蓬莱山、方丈山、瀛州 (えいしゅう)山の三神山に、不老不死の神仙が住むと考えられました。この三神山に行けば、不老不死の霊薬が手に入ると信じられていました。実際、秦の始皇帝や漢の武帝などが使者を出して、不死の薬を得ようとしたと伝わっています。三神山での神仙の世界は、明るく理想的な世界です。

日本の山中他界観に通じるものがありますが、日本の場合、中国のような楽観的なものではないように思います。日本の山中他界は、生きたまま行くよりは、死んでから行くというイメージが強いです。もちろん、極楽浄土が想起されることもありますが、地獄も含まれることもあります。また、極楽浄土も神仙の世界のような明るい世界というよりは、もう少し静粛な場のように思います。なにせ、極楽浄土は、成仏のための修業の場でありますから。

画像:蓬莱山
画像出所:4travel.jp https://4travel.jp/travelogue/10661086

恋と仏道

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『今昔物語集』巻17第33話「恋の虜になって仏道に励む話」という、おもしろいお話があります。

比叡山の若い僧が、虚空蔵菩薩にお祈りするため、法輪寺に詣でたときに、ある女性に恋心をいだきます。僧はその女性と関係を持とうしましが、女性に断られます。そして、女性から、『法華経』を空で読めるようになれば、僧の願いをかなえると言います。僧は、比叡山に戻り、『法華経』を何度も読み、再び女性のところに訪れます。今度は、学問に精を出して一人前の学生になれば、願いをかなえると言います。僧は、再び比叡山に戻り学問に一心不乱に取り組み、3年後りっぱな学生となって、再び女性のところに行きます。

僧は疲れて寝てしまい、朝目が覚めると、なんと野原で寝ていたことに気づきます。しかたなく、法輪寺に詣で、その後夢を見ます。その夢で、その女性が虚空蔵菩薩であることを知ります。その後、その僧は有名な学生になったというお話です。

煩悩を無くすことを説かれたお釈迦様は、このお話を知れば、さぞびっくりされたことでしょう。

画像:虚空蔵菩薩
画像出所:東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A989

吉野山

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平城京の時代、寺院は都市の中で建立されました。それが、都が奈良から京都に移り、新しい宗派ができますと、都の中心から離れた山に、寺院が造られるようになります。

最澄さんが比叡山、空海さんも高野山に本山を築きます。両山も元々、山岳信仰の対象でした。そのため、神様がいましたので、神仏習合が行われました。こうした新宗派が定着しますと、山への信仰が再活性化します。

京都に移ったため、逆に大和の吉野山の神秘性が高まり、信仰が拡大しました。多くの人が、京都から吉野山に訪れます。また、神仏習合から修験道に発展し、多くの修行者が吉野山に集まることになります。都が移ってから、かえって吉野山が再評価されるのは、興味深いですね。

画像:吉野山
画像出所:なら旅ネット 
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/02nature/01mountain/04south_area/yoshinoyama/

井戸の底の不動明王

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京都駅の近くに、不動堂明王院というお寺があります。このお寺には、空海さんが、霊石に不動明王を彫刻し、石棺に納めて、井戸の奥底深くに安置したと伝わっています。この地が、東寺の鬼門(東北)に当たるためです。

井戸の底なので、見ることができず、ただ想像するだけです。また、宇多上皇が、信仰から、勅命でこの井戸を封じられていましたので、誰もそれを見ることは許されませんでした。ますます興味をそそられますね。

現在は、御前立として不動尊立像が安置されていますので、井戸の中の不動明王像に代わり、これを拝することができます。また、現在は、浄土宗西山派の寺院となっています。

画像:不動堂明王院
画像出所:不動堂明王院 http://fudondoumyououin.web.fc2.com/about.html

寺社の縁起

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寺社の縁起がどのように変遷していくかについて、考えてみたいと思います。

一つの例として、以前ご紹介した吉田寺を挙げます。吉田寺は、江戸時代に廃寺になって現在は存在しません。笹川尚紀氏によれば、13世紀後期、吉田寺は、吉備真備さんによって建立されたと伝わっていました。吉備真備さんは、右大臣にまでなられた方ですので、寺の格としては十分です。

それが、時代が下りますと、聖武天皇の詔命によって建立されたということが加わります。さらに、本像の千手観音像は、行基さんによって造られたという話が出てきます。どんどん、バージョンアップされていきますね。もちろん、適当にバージョンアップされていったのではなく、吉田寺と吉備真備さん、聖武天皇、行基さんが結び付けられる背景には、何らかの関係があると考えられます。

参考文献:笹川尚紀(2017)「中山吉田寺にかんする初歩的考察」京都大学構内遺跡調査研究年報pp.145-168.

画像:吉備真備
画像出所:倉敷観光WEB https://www.kurashiki-tabi.jp/blog/13015/

銀閣寺

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正式名称を東山慈照寺といいます。金閣寺とともに、臨済宗相国寺の塔頭寺院の一つです。

よく、室町幕府八代将軍の足利義政さんによって造られたお寺ということが言われますが、義政さんが造営した山荘東山殿が、義政さんの死後、お寺になったものです(金閣寺も三代将軍義満さんが造営した北山殿が、義満さんの死後お寺に成っています)。観音殿(銀閣・国宝)が、最も有名ですが、義政さんは、その完成を見ることができませんでした。

銀閣寺は大文字山(如意ヶ岳)の麓です。この大文字の送り火ですが、義政さんが、若くして亡くなった息子の義尚さんの菩提を弔うため、横川景三さんと芳賀掃部さんに画かせたともいわれています。ただ、他の説もあり、コンセンサスは得られていません。

画像:銀閣寺
画像出所:相国寺 https://www.shokoku-ji.jp/ginkakuji/

野宮神社

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京都の嵯峨野に、古い伝統のある野宮神社があります。未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)等から、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が選ばれました。この斎王が、伊勢へ行く前に身を清めたのが、この野宮神社でした。現在では、良縁と『源氏物語』で有名です。

『源氏物語』では、光源氏が六条御息所と最後の逢瀬を重ねたのが、この野宮神社です。その意味では、別れの場となっているのですが。もともと良縁の御利益で知られていたなら、『源氏物語』は迷惑なお話です。それとも、この『源氏物語』で、悪縁を断つということから良縁に変じたのでしょうか。

画像:野宮神社
画像出所:京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=7&tourism_id=501

着ぐるみの阿弥陀仏像

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前回に続き、当麻寺の阿弥陀仏像です。

關信子氏は、この阿弥陀仏像を研究され、面白い発見をされました。結論から申し上げますと、なんと着ぐるみなのです。まず、像が上下に分かれます。頭部から法衣の裾までの部分で分かれます。上部に人がはいるのでしょう。また、覗き穴があります。さらに、像内に背負うための工夫がなされています。

こうした着ぐるみですので、阿弥陀仏像としては、奇異な印象を与え、芸術的な評価は高くないとされています。それは、人が入るため、軽量化等の工夫が優先され、芸術的な部分が犠牲になっていると考えられます。この阿弥陀仏像こそ、迎講で使われ、人が入って歩いていたものです。再び、迎講で用いられたら、おもしろいですね。

参考文献 關信子(1995)「"迎講阿弥陀像"考Ⅱ-当麻寺の来迎会と弘法寺の迎講阿弥陀像-」仏教芸術 (223), pp.77-102.

画像:當麻寺
画像出所:當麻寺 http://www.taimadera.org/purpose/2/index.html

当麻寺迎講の阿弥陀仏像

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最も有名な迎講の一つとして、当麻寺練供養会式があります。何度か、このブログでも採り上げました。

この迎講で、ひとつ不思議なことがあります。この迎講、阿弥陀仏が登場しないのです。観音菩薩、勢至菩薩ら二十五菩薩が出てくるのですが、主人公である阿弥陀仏が登場しません。ただ、長い歴史を持つ迎講ですので、過去は阿弥陀仏が登場しておりました。これは、16世紀に描かれた「當麻寺縁起」の迎講の場面でも、阿弥陀仏が描かれていることからも確かです。実際、阿弥陀仏の像は本堂に置かれています。

この阿弥陀仏像について、關信子氏がたいへんおもしろい研究をされていますので、次回、ご紹介したいと思います。

参考文献 關信子(1995)「"迎講阿弥陀像"考Ⅰ-当麻寺の来迎会と弘法寺の迎講阿弥陀像-」仏教芸術 (221), pp.100-132.

画像:當麻寺縁起
画像出所:ブッダワールド http://www.buddha-world.jp/file/pickup/vol015/index.html

等持院

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等持院は、足利尊氏さんが、足利氏の菩提寺である等持寺も別院として建立されました。その後、この等持寺も等持院に移されて、等持院が足利将軍家歴代の菩提所となりました。そのため、尊氏さんの墓所を見ることができます。

等持院で最も有名なのは、霊光殿です。ここでは、足利歴代の将軍像が安置されていますが、なぜか5代義量さんの像と14代義栄の像が欠けています。その代わりに、なんと徳川家康さんの像があります。家康さんの像は、はじめ石清水八幡宮豊蔵坊にありましたが、廃仏毀釈後に等持院に移されました。

1863年に、尊王攘夷派によって、足利歴代の将軍像のうち初代・尊氏さん、2代・義詮さん、3代・義満さんの像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の河原に晒されました。足利三代木像梟首事件です。

画像:霊光殿
画像出所:等持院 https://toujiin.jp/about.html

真如堂縁起絵巻

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京都の真如堂(正式名称:真正極楽寺)に、室町時代後期に描かれた「真如堂縁起絵巻」があります。

上中下3巻から成り、上巻は本尊阿弥陀如来について、中巻は真如堂創建の由来、そして下巻が真如堂の歴史等です。とくに、この下巻には、応仁の乱の様子がビジュアルに表現されているため、当時の戦争の様子について貴重な資料となっています。

東岩倉の戦いが描かれていますが、この戦いで、南禅寺などとともに、真如堂は焼失しました。1692年、この焼失を機に写本が制作され、毎年、宝物虫払会(7月25日)にこの写本が一般公開されています。

画像:真如堂縁起絵巻
画像出所:真如堂 https://shin-nyo-do.jp/about/art/

臨床宗教師

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前回、ターミナルケアについてお話しました。終末期の患者の精神的苦痛を緩和・軽減するのは、医療関係者だけでは限界があります。宗教者の助けが必要になります。

そうした、専門家として、臨床宗教師という資格があります。元々は、2011年3月の東日本大震災による被害者の方々の心のケアが発端です。その後、その活動の場が、医療機関に拡大していきました。

講座を受けることによって、資格が付与されるのですが、講座の受講者は、特定の宗教に限られていません。その意味では、全宗教的な取り組みですね。今後、発展していくことが期待されます。

画像:臨床宗教師記事(河北新報)
画像出所:東北臨床宗教師会
https://www.ht-rinshu.com/single-post/2019/11/10/%E8%87%A8%E5%BA%8A%E5%AE%97%E6%95%99%E5%B8%AB%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B%E6%8E%B2%E8%BC%89

ターミナルケアと臨終行儀

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現在、医療の中心は、いかに病気を治療し、長生きをさせることです。ただ、余命わずかな患者に対して、こうした治療だけでは対応できません。そのため、こうした患者に対して、身体的苦痛や精神的苦痛を緩和・軽減するターミナルケアの重要性が注目されています。

このターミナルケアのヒントとして、日本で長い歴史を持つ臨終行儀が再考されています。とくに精神的苦痛の緩和には、参考になる部分が多いように思われます。臨終行儀も長い歴史の中で変化してきました。これは、実際の臨終時での様々な経験が積み重なって、教義による形式的なものから、徐々に実践的な行儀に変わってきたと考えられます。いわゆるノウハウの蓄積ですね。もちろん、時代が違うことも確かですが、ターミナルケアにとって、臨終行儀は気づきを与えてくれるように思います。

画像:ターミナルケア
画像出所:ジョブメドレー https://job-medley.com/tips/detail/923/

藤原忠実の怨霊

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前回、藤原忠実さんのお話をしましたが、実は忠実さんの怨霊の話があります。

忠実さんは、怨霊の代表である崇徳上皇と同時代の人です。保元の乱では、忠通さん、頼長さんという忠実さんの二人の息子が、天皇方、上皇方に分かれます。忠通さんが天皇方、頼長さんが上皇方です。忠実さんは、頼長さん方につき、敗北します。命は助かりますが、幽閉されます。そして、忠実さんは亡くなりますが、忠実さんと対立していた忠通さんは、法要を行わなかったと言われています。

その後、忠通さんの一族に不幸が続きますと、忠実さんの怨霊の祟りによるものだと思われました。その結果、忠実さんの怨霊を鎮めるために法華八講が行われるようになりました。崇徳上皇をはじめ、保元の乱の敗者は、怨霊にされることが多かったのですね。

画像:藤原忠実(大河ドラマ)
画像出所:チャンネル銀河 https://www.ch-ginga.jp/feature/kiyomori/cast/

福大明神社

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京都に、小祠として民家の中にある福大明神社があります。ここに祀られているのが、紀貫之という説や荼吉尼天という説があります。

荼吉尼天は、インドでは夜叉・羅刹でしたが、その後仏教に帰依したことになっています。日本の中世では、荼吉尼天は願望成就の神様となりましたが、その力はあまりにも強力であり、祀り方を間違えると大きな不幸を招くので、外法とされていました。それでも、荼吉尼天に頼る人もいます。

『古今著聞集』では、関白藤原忠実さんが信仰したことが記されています。藤原忠実さんがある願いをかなえようと、修験僧に荼吉尼の法を行わせました。その後、忠実が昼寝をしていると、夢に絶世の美女が現れ、忠実が思わず女の髪をつかむと髪は切れてしまい、目が覚めました。手に残った髪を見てみると、なんと狐の尾でありました。その後、忠実さんの大望はかなえられたそうです。

画像:福大明神社解説
画像出所:国際日本文化研究センター
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_023.html

大豊神社

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887年に、宇多天皇の病気平癒祈願のために、医薬の祖とされる少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀って創建されたと言われています。後に、応神天皇と菅原道真公が合祀されました。御存じのように、宇多天皇は道真さんの後ろ盾でしたので、関係があるのかもしれません。この神社が、全国的に有名になったのは、末社の大国社に狛犬の代わりに狛ねずみが奉られていることです。また、別の末社の愛宕社には火伏せの狛鳶(とび)、日吉社には鬼門除けの狛猿が守っています。

また、神社は、鹿ケ谷にあります。そう、後白河法皇が、藤原成親、西光、俊寛らと平氏打倒の陰謀が語られた鹿ケ谷山荘の近くです。

画像:大豊神社、大国社
画像出所:Kyoto design https://kyoto-design.jp/spot/8321


仏教と穢れ

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前回ご紹介した『今昔物語集』巻29第17話「小屋寺の大鐘が盗まれる話」に、仏教と穢れについて興味深い箇所があります。

死が穢れているという古来の信仰から、神社等では死体を遠ざけます。この物語でも、村人は、寺から死体を処理するよう頼まれますが、年に1回の村の祭りがあるので、穢れに近づきたくないと断ります。たぶん、死体に近づくと、神輿が担げなくなるのでしょう。これは、現代にも当てはまります。

ただ、この物語で興味深いのは、僧も穢れを嫌がるところです。現代は、お寺と葬式は切っても切れない関係ですが、この物語の頃は、まだ、その関係が確立していなかったのでしょう。そのため、僧自身が、死体からできるだけ離れようとし、物語であるような詐欺に遭ってしまったのでしょう。

画像:神輿
画像出所:東洋不動産 https://toyo-fudousan.co.jp/contents/377

お寺が大掛かりな詐欺に遭うお話

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『今昔物語集』巻29第17話「小屋寺の大鐘が盗まれる話」は、当時としては、大掛かりな詐欺のお話です。

摂津の国に小屋寺というお寺がありました。その小屋寺の住職のところに八十歳くらいの旅の僧が訪ねてきて、しばらく泊めてほしいと頼みます。住職が適当な場所がないと伝えますと、老僧は鐘つき堂の下でかまわないというので、住職は了承しました。数日後、なんと、この老僧が亡くなります。お寺の僧も、村人もこの死体の処理を嫌がり、住職は困ってしまいました。そこに、老僧の子供を名乗る二人の男が訪ねてきて、父親の死体を持ち帰ると伝えます。そして、45人ほどの男が鐘つき堂に来て死体を持ち帰っていきました。ただし、僧も村人も穢れを怖れてその様子を見た者はいませんでした。

30日が過ぎて穢れの期間が終わったころ、鐘つき堂に行ってみると、なんと大鐘が盗まれていました。老僧は死んだふりをしていただけで、仲間が鐘を運び出したのでした。総勢50人近い詐欺集団ですね。

画像:大鐘
画像出所:ニッポン旅マガジン
https://tabi-mag.jp/todaiji1231/