カヤカベ教

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前回、薩摩藩と浄土真宗の関係についてお話ししましたが、今回はそれに関係したカヤカベ教をご紹介したいと思います。星野元貞氏によれば、カヤカベ教は、本願寺門徒が弾圧回避のために潜行し、信仰偽装を目的として霧島神宮と結びつき、種々のタブーを取り入れたことによって成立した宗教です。

本願寺とも絶縁状態となり、在地の指導者が中心となって、土俗信仰を取り入れ、特殊な講が、霧島山麓で行われました。カヤカベの語源は、本尊を茅葺きの壁に隠して礼拝したためとか、本尊もなくただ茅の壁に向かって礼拝したためとか、山中でカヤ壁をめぐらして法座を開いたためだとか言われていますが、どの説が正しいかわかっていません。信徒の潜伏・秘密保持は厳密でして、周りの人々もほとんど知らない存在でありました。

次回は、星野元貞氏の説に基づき、このカヤカベ教の浄土往生思想についてご紹介します。

参考文献
星野元貞(1980)「かくれ念仏-カヤカベ教」『講座日本の民族宗教2』弘文堂

薩摩藩と浄土真宗

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薩摩藩では、室町末期から明治の初めまで、浄土真宗が禁止されていました。戦国時代の一向宗の力を恐れたことや、妻帯肉食が嫌悪されたことが要因とされています。

しかし、本願寺は、薩摩に密かに使者の僧を送り、布教を行っていました。信者を獲得し、いわゆる「かくれ念仏」が行われていました。一方、薩摩藩も真宗に対して弾圧を行い、1835年に行われた天保の大弾圧では、70余りの講、本尊2千幅が摘発され、約14万人が処分されました。また、薩摩藩では、重さ30kgの平たい石をひざの上に一枚ずつ重ねる「石抱き」という拷問が行われました。こうした弾圧にもかかわらず、信仰者は講を結成して、「かくれ念仏」を続けていました。まさに命がけの信仰です。

画像:薩摩富士
画像出所:南九州市
https://www.city.minamikyushu.lg.jp/kankou/kanko/sagasu/chiranchiiki/asahi.html

古代の寺院と葬送儀礼

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奈良時代は、まだ、寺院が葬儀を仕切っていませんでした。756年に聖武天皇が崩御されました。僧侶は、天皇が病のときに、病気平癒の祈りを捧げますが、亡くなれますと、活躍の場はありません。葬送儀礼のメンバーには、僧侶は含まれていません。

現在では、葬式仏教と揶揄されることを考えますと、驚きです。当時は、仏教は鎮護国家の役割が大きかったと考えられます。

平安時代中期以降、末法思想、浄土信仰の浸透によって、寺院が徐々に葬送儀礼に入ってきます。阿弥陀仏や極楽浄土が、貴族の間で受け入れられるようになると、死後の世界は、僧侶の領分となっていきます。その意味では、仏教と葬儀の関係は、極楽浄土から始まったと考えられます。

画像:聖武天皇
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

天狗

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日本の説話に天狗は、よく登場してきます。古来では、山での怪異現象と結びつけられていましたが、中世に入ると徐々に怨霊に結び付いていきます。そして、天狗は人に憑いて、病気等をもたらす存在となります。また、往生を妨げる存在としての性格も帯びてきます。その意味では、天狗は、仏教の敵対者であり、降伏させられるものとなりました。

その後、争いごとを生じさせる、まさに怨霊としての性格が色濃く出てきます。さらには、非業の死を遂げた人が、死後、天狗となり世の中に災いをもたらすと考えられるようになります。ほとんど、怨霊と同じですね。

ついには、天狗には、未来を予想できるという能力が加わってきます。例えば、『太平記』では、北条氏の滅亡を予測します。このように、天狗は、時代とともに、その性格が変化していくのですね。

画像:天狗
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97

アイヌの山岳信仰

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北海道には、モイワと呼ばれる山が、各地に点在しています。「モ」は小さい、「イワ」葉山の意味です。モイワはどれも、円頂形あるいは円錐形になっています。そして、このモイワがアイヌの霊域とされています。

亡くなった人の霊は、このモイワを通ってあの世に行きます。あの世に行った霊は、指示されたあの世の集落(同性の先祖がいることが多い)に住むことになります。ここでの生活は、現世での疲れをとる休息の場であります。その後、この世への再来が決まると、この世からあの世に来たのと同じ道を通って、現世に向かいます。指定された母体に入り、再び現世での生活が始まります。

アイヌでも、山に他界を求める信仰がありますので、山岳信仰は古くから、日本に根づいていたと考えられます。

画像:藻岩山
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%BB%E5%B2%A9%E5%B1%B1

智光曼陀羅と禅林寺山越阿弥陀図

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元興寺の収蔵品に、智光曼荼羅があります。智光さんは、8世紀の三論宗の僧で、浄土思想と極めて関係が深い方です。この智光さんの、感得と伝えられた正本の智光曼荼羅は、残念なことに、1451年の土一揆により禅定院で焼失しました。現在のものは、興福寺大乗院門跡尋尊さんと極楽坊主良堯さんが、興福寺絵所松南座の法橋清賢さんに命じて、製作されたものです(1497年)。この作品が、正本とどのように違っているかは、わかりません。

この曼荼羅で、開き扉の両方に、2体ずつ四天王が描かれているのは、興味深いです。通常の浄土絵画ではめずらしく、他の思想が融合している可能性があります。同様に四天王が描かれている浄土絵画に、禅林寺の山越阿弥陀図があります。両者には、何か関係があるのでしょうか。

画像:智光曼荼羅
画像出所:元興寺 https://gangoji-tera.or.jp/read/mandara.html

懐古主義

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年配の人が、昔がよかったと考え、現代を否定することがあります。とくに、言葉遣いなどを嘆くことが多いように思います。これは、現代に限ったことではなく、昔からあることです。

例えば、『徒然草』第22段では、現代風は下品になっていくと嘆いています。昔は「車もたげよ」と言っていたのが、今では「車もてあげよ」と言うようになり、「火かかげよ」も「火かきあげよ」と言うようになったそうです。現代の私たちには、両者の違いはよくわかりませんが。また、「御香の炉」を略して「香炉」と言うことも歎かれています。このように略することは、よくありそうですね。

こうした懐古主義は、未来も続くことでしょう。また、末法思想などとも関連しているかもしれません。

画像:香炉
画像出所:juttoku https://juttoku.jp/blog/2020/howto/0414_5734

三井寺VS延暦寺

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『三井往生伝』は、田嶋一夫氏によって発見された往生伝です。三井寺関係者の往生伝が記載されています。

御存じのように、三井寺のライバルは比叡山延暦寺です。比叡山で、円仁末流(山門派)と円珍末流(寺門派)の対立があり、円珍末流が比叡山を降り、三井寺に入ります。そのため、『三井往生伝』も延暦寺を意識しています。

第8話智静伝では、比叡山の実因さんが、法性寺の座主になることに対し、朝廷の許しを得られなかったため、霊となって主上を悩ませます。それに対し、三井寺の智静さんが、その霊を降伏し、実因さんを教えさとしたとする話になっています。実は、実因さんは徳の高い僧なのですが。比叡山は悪役ですね。

逆のパターンとしては、『源平盛衰記』に登場する、三井寺の頼豪さんがあります。頼豪さんは、比叡山延暦寺に恨みを持って亡くなり、その怨念が巨大なネズミとなり、延暦寺の経典を食い荒らします。どちらにしても、両寺のライバル関係を表しています。

画像:三井寺
画像出所:三井寺 http://www.shiga-miidera.or.jp/

本居宣長さんの死生観2

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前回に続いて、本居宣長さんの死生観です。

松本滋氏は、宣長さんの墓について注目します。宣長さんは、なんと墓を二つつくっています。一つは、先祖の墓と同じ墓地につくっています。世間一般と同じように、仏教的に葬られます。ただし、この墓には、本人の遺骸がありません。遺骸は、人里離れた山室山の上につくられたもう一つの墓に入れられました。

この背景には、宣長さんの晩年の思想の変化があります。宣長さんは、魂は、予美国に行くが、その一部はこの世に留まると考えるようになりました。その残る程度は、位の尊卑、心の痴愚、強弱によると考えます。そして、宣長さんは、死後、思い入れの深い山室山に残ろうとしたと考えられます。

参考文献
松本滋(1972)「本居宣長における生と死」宗教思想研究会編『日本人の生死観』大蔵出版

画像:本居宣長墓(山室山)
画像出所:文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216689

本居宣長さんの死生観

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仏教以外の死生観について、江戸時代の国学者である本居宣長さんを取り上げたいと思います。

宣長さんの家は元々浄土宗でしたので、宣長さんは、当初、極楽往生の信者でした。その後、『古事記』の研究から、日本古典に記された神話・伝承に信仰が移ります。その結果、宣長さんにとっての死後の世界は、「予美国(ヨミノクニ)」になります。これは、汚く穢れに満ちた世界です。現世の行いがどうであろうと、皆、死後、この「予美国」に行くことになります。仏教での阿弥陀浄土のような世界は想定されていません。

したがって、人にとって、死ぬことほど悲しいことはないのです。そのため、宣長さんにとって、この世の生ほど大切なものはありません。生を充実させることと、できるだけ長く生きることが、宣長さんの生き方です。それでも、死は避けることはできません。死が近づいたときに、宣長さんは、どうされたのでしょうか。次回に続きます。

参考文献
松本滋(1972)「本居宣長における生と死」宗教思想研究会編『日本人の生死観』大蔵出版

画像:本居宣長
画像出所:ウィキペディア 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7

死の受容

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以前もお話しましたが、死生観の話で、死を見つめて生きるという考えがあります。死を見つめることで、日常の生き方が有意義になるという考え方です。この考え方自体、その通りだと思いますが、これで、死生観が語れるのかというと疑問です。

中世の念仏行者らの法語を集録した書に『一言芳談』(鎌倉後期成立)があります。そこに、敬仏房の法語があります。敬仏房は、まさに死を見つめた生き方をします。毎日、今日だけの命と考え、念仏修業を行いました。非常に尊い生き方でした。ところが、こうした敬仏房でさえ、実際に死が身近になると狼狽してしまいます。やはり、死を見つめて生きるということと、死の受容とは分けて考える必要がありそうです。

画像:一言芳談妙
画像出所:愛媛大学 http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/297/002.html

徒然草の無常観

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『徒然草』の第7段は、以下のように始まります。

「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」

化野と鳥辺山は、京都の有名な埋葬地です。毎日行われる埋葬は、人の命のはかなさを表しています。でも、兼好さんは、もしこれらの埋葬がなければ、つまり人が永遠に生きるならば、趣がないと言います。そして、世の定めがないことを評価します。つまり、兼好さんは、無常を嘆くのではなく、無常を受け入れ、そこに風情を感じているのです。

仏教が無常を超えることに努力するのに対し、兼好さんは、無常そのものを積極的に捉えます。これは、兼好さんに限らず、日本人がある程度共有している価値観かもしれません。

画像:鳥部山
画像出所:フォト蔵 http://photozou.jp/photo/show/630919/49481101

壬生寺

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京都の壬生寺は、三井寺の快賢さんによって創建されました。本像は、延命地蔵菩薩像です。

壬生寺で有名なのは、壬生狂言です。鎌倉時代、壬生寺中興の祖円覚上人が始めた持斎融通念佛が基になっています。これは、身ぶり手ぶりだけで、無言の宗教劇で、一般民衆の教化は図ったものです。現在は、演劇的要素が強くなっていますが、無言で行われています。春、秋、節分の時期に行われます(ただし、節分の時期は、壬生狂言30番のうち「節分」だけが上演されます)。

また、壬生寺は、新選組との関係が深いです。新選組が文壬生の地で結成されたため、数多くの逸話が残っています。もちろん、新選組のメンバーは壬生狂言を観賞しています。さらに、新選組が壬生寺で相撲興行を行ったという話もあります。こうした新選組との関係から、新選組隊士の墓があり、11名の隊士が祀られています。

画像:壬生寺
画像出所:壬生寺 http://www.mibudera.com/

高野山往生伝

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平安時代の最末期に『高野山往生伝』が、沙門如寂さんによって編集されました。これまでの往生伝と違い、高野山で修行された人に焦点を絞っています。また、これまでの往生伝が往生者の社会的な地位を意識して編集されたのに対して、『高野山往生伝』は、往生の年代順に記載されています。その意味では、編者の往生への純粋な思いが伝わってきそうです。

高野山ですので、真言密教も混ざってきます。そのため、往生者の最後を見ると、阿弥陀仏の極楽浄土への往生が中心ではありますが、密厳浄土、兜率天浄土、さらには即身成仏も含まれていて、非常にユニークな往生伝となっています。また、時代的にも、ちょうど中世が始まったころの作品となります。

画像:高野山金剛峰寺
画像出所:高野山金剛峰寺 https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html

吉田神社 大元宮

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京都の吉田神社には、山頂近くに大元宮があります。この大元宮は、なんと全国の神様を祀っています。前回、ご紹介した吉田兼倶さんが、権力を拡大した源泉でもあります。

応仁の乱で、吉田神社は焼失し、斎場所大元宮は自宅に置かれていました。兼倶さんは、当時の将軍足利義政さんとその妻日野富子さんの信頼を得ます。そして、1484年、日野富子さんの莫大な寄進により、大元宮が創建されます。さらに、1487年、兼倶さんは、伊勢神宮内宮の神器が、吉田山に降臨してきたと主張しました。「延徳の密奏事件」と呼ばれます。これを朝廷が認めたため、大元宮の威光は大いに高まりました。もちろん、伊勢神宮は激怒し、その後兼倶さんは神敵とされます。

その後、大元宮は焼失しますが、淀殿の祈願により豊臣秀頼さんが再建しました。

画像:大元宮
画像出所:吉田神社 http://www.yoshidajinja.com/yuisyo.htm#daigengu

吉田兼好さんと吉田神社

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私が学生の頃、吉田兼好さんは、京都の吉田神社の出身であると習いました。ただ、現在では、否定されています。

吉田神道を創始し、吉田神社を全国の神社の棟梁にまで押し上げた吉田兼倶さん(室町から戦国時代)の捏造とされています。一族の地位を上げるため、有名人を勝手に家系図に入れたのでしょう。中臣鎌足さんも入っていますので、なんでもありです。したがいまして、吉田兼好さんと吉田神社は、何ら関係はありません。

その意味では、吉田という姓はあとからついたのかもしれません。吉田兼好さんの本名は、卜部兼好とされています。ただ、吉田神社の吉田氏も元々卜部姓です。だからこそ、吉田家の家系図に勝手に入れられたのでしょう。そのため、吉田も卜部も使わず、最近は兼好法師と呼ばれることが多いそうです。

画像:吉田神社
画像出所:吉田神社 http://www.yoshidajinja.com/yuisyo.htm#hongu

人生40年

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現代、人生100年時代と言われます。でも、『徒然草』第7段で、吉田兼好さんは、長生きをすれば恥をかくことも多いので、長くとも40歳に達しないで死ぬのが見た目もよいと主張します。その年代を過ぎれば、老醜の姿を恥じる心もなくなり、人前に出たがり、子や孫を溺愛し、立身する将来を見届けるまでの余命を願い、俗世に執着する欲心ばかり深くなり、ついに情趣も理解できなくなっていくと言います。

当時と現代の違いでしょう。現代でも、老害は言われますが、40過ぎで、そのようなことが言われることはありません。隔世の感があります。ただし、吉田兼好さんの生没年ははっきりしませんが、70歳を超えていたと思われます。『徒然草』第7段が何歳のころに書かれたかは、わかっていませんが、70歳の兼好さんは、どう思ったのでしょうか。

画像:吉田兼好
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E5%A5%BD

二上山

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二上山は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山で、東の麓に迎講で有名な当麻寺があります。迎講では、西に面し、その背景となっています。まさに極楽浄土をイメージさせるものとなっています。

山には、謀反の罪を着せられ、自害した、大津皇子のお墓があります。大津皇子の姉である、大伯皇女(おおくのひめみこ)が、弟の死を悲しんだ歌が、『万葉集』に載せられています。

「うつそみの、人にある我れや、明日よりは、二上山(ふたかみやま)を、弟背(いろせ)と我が見む」

二上山に夕日が沈む光景は、非常に神秘的で、そこに極楽浄土などの他界を想像させられます。

画像:二上山
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E5%B1%B1_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%83%BB%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C)

鳥部野

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『徒然草』に「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん」と書かれているように、鳥部野(鳥部山)は、化野とともに京都の三大埋葬地でした(もう一つは蓮台野)。

鳥部野は、現在、清水寺や大谷本廟を含むあたりになります。そこから、そう遠くないところに京都市中央斎場があります。また、近くに、当時迎講(阿弥陀仏や聖衆の来迎を演劇的に行う仏会)を行っていた六波羅蜜寺、小野篁が地獄に通うときにつかっていた井戸のある六道珍皇寺などがあり、まさに他界との接点になっています。鳥部野一帯を歩くと、極楽浄土や地獄が身近に感じられます。

画像:鳥部野
画像出所:京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/glossary/single.php?glossary_id=413

法華経と仙人

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『発心集』第3・12話に、「松室の童子、成仏の事」というお話があります。これは、日本人の宗教の受容におもしろい示唆を与えてくれます。

このお話では、ある僧の稚児が、法華経ばかり読んでいます。その子が14-15歳になったときに疾走します。師僧は、山にその子を探し行きますと、なんと仙人になっていました。法華経の功徳が、仙人になることとは不思議ですが、さらに作者鴨長明は、タイトルにありますように、「成仏」と呼んでいます。仏教と道教が入り混じっています。

また、仙人になった子供は、下界は汚くて行くことができないと言います。山に仙人の理想郷を想定していますので、山岳信仰とも関係がありそうです。さらに、師僧は、仙人になった子に、琵琶を貸します。その後、その琵琶を返してもらった後、神様に奉納します。ここで、神道も混ざってきます。

画像:仙人
画像出所:文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/82306

日本古来の埋葬

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日本古来の埋葬方法は、水葬や風葬も存在しましたが、一般的には土葬であったと考えられています。

生活の場所からそれほど離れていない場所に穴を掘るのですが、当時は、穴を掘る道具がそれほど発展していなかったと考えられますので、穴は浅かったと思われます。死体の関節をまげて穴に入れる、いわゆる屈葬が行われました。この屈葬は、死霊を抑えるために行われたと言われますが、穴が浅かったため、そうする必要があったという現実的な理由もあるように思います。

この土葬によって、地下に黄泉の国をイメージするようになったと考えられます。また、黄泉の国での腐乱のイメージも、土葬の死体の状態と関連しているように思われます。

画像:伊賦夜坂
画像出所:國學院大學 https://www.kokugakuin.ac.jp/article/86245

泰山府君

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中国の泰山は、中国東部の名山ですが、漢代以降、歴代皇帝が封禅を行って天地に報告を行う聖地となり、また死者の霊魂が集まる地でもありました。そのため、道教では、この山自体が神様とみなされ、泰山府君と呼ばれるようになります。泰山府君は、冥界の最高神であり、人間の寿命や在世での地位を司ると考えられました。閻魔大王に似ていますね。

そのため、泰山府君は、仏教にも取り入れられましたが、閻魔大王を含む、地獄の裁判官十王の一人とされ、泰山王となりました。本地は、薬師如来です。ただ、閻魔大王と同一視されることもあります。また、泰山府君は、日本では、陰陽道の主祭神とされ、最高奥義「泰山府君の祭」が有名です。いろいろな宗教に取り入れられる神様ですね。それほど、死を司る存在は、どの宗教でも重要だったと考えられます。

画像:泰山王
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B

死出の山路

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日本は、古来、死んだ後、山を登ってあの世に行くという信仰があります。多くの山に囲まれた日本らしい信仰です。

「千載和歌集」に鳥羽院の「常よりも睦まじきかなホトトギス死出の山路の友と思へば」という歌があります。また、鴨長明さんの『方丈記』に「語らふごとに、死出の山路を契る」と書かれています。これら以外にも、数多くの死出の山路が、歌や説話に出てきます。

埋葬の時に死者に旅装束を着せるという習俗は、こうした信仰から来ていると考えられます。死出の山路は、日本人の感覚にフィットするものですね。話は逸れますが、死出の山路に関して、鴨長明さんは、鳥羽院の歌を意識していたように思います。

画像:蓼科山
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1