若宮八幡

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神社に若宮とよばれる社は、数多くありますが、柳田圀男さんによりますと、その多くが人を祀っているそうです。

通常、本宮があって、若宮があるのですが、若宮だけが独立して存在する例もあります。柳田圀男さんは、全国の若宮の例を出していますが、不慮の死を遂げ、恨みを持って亡くなった人が多いのには驚きます。まさに、怨霊を祀って、霊異を防ぐことが目的であったように思われます。

柳田圀男さんのユニークなところは、八幡信仰に注目したところです。八幡信仰は、全国に広まりましたが、これを源氏との関係だけでは説明できないとします。つまり、八幡信仰に怨霊統御という信仰があったのでないかと主張されます。そして、実際、多くの若宮が八幡に属しています。非常に興味深い研究ですね。

画像:若宮八幡社
画像出所:若宮八幡社 http://www.wakamiya.or.jp/

呪詛合戦

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『今昔物語集』巻14第40話に、空海さんと修円さんが呪詛合戦をしたというとんでもないお話があります。

空海さんと修円さん(山階寺)は、どちらも名僧で、嵯峨天皇の信任が厚かったそうです。そのため、ライバル関係にあり、仲が険悪になりました。そして、お互い呪詛で相手を殺そうとします。そこで、空海さんは謀をします。弟子に、自分が死んだと風潮させます。それを聞いた修円さんが、安心し油断したところ、空海さんに呪い殺されました。名僧による呪詛合戦とは、穏やかではありません。

『今昔物語集』では、行く末々で、人々の悪行をとどめるために二人がこのようなことを行ったと理由付けをしていますが、はたしてどうなのでしょうか。

画像:空海
画像出所:a-namo http://www.a-namo.com/guest/akisan/kouyasan/kouya/ku_kai.htm

熊谷直実と予告往生

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前回、上品上生宣言で物議をかもした直実さんでしたが、最晩年には、なんと予告往生を宣言します。上品上生宣言といい、予告往生を宣言といい、とにかく目立ちたがり屋なのかもしれません。

予告した日には、往生を見ようと多くの人が集まりました。直実さんは、沐浴をして、念仏を唱えますが、突然、往生の日を延期することを伝えます。集まった人々は、失望して帰って行きましたが、直実さんは、阿弥陀仏のお告げなのでと気にする様子はありません。そして、迎えた予告の日になんと直実さんは亡くなります。それまで、病気はなかったそうですので、まさに奇跡です。はたして、上品上生で往生されたのでしょうか。

画像:熊谷直実
画像出所:熊谷デジタルミュージアム
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/ijin/naozane.htm

熊谷直実と上品上生

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平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した、熊谷直実さんという武士がいました。

直実さんは、『平家物語』や『吾妻鏡』によく取り上げられる逸話の多い人です。晩年、所領の争いで負け、怒って出家します。そして、法然さんの門下に入ります。

この直実さんは、なんと上品上生でない限り往生しないと宣言します。ご存じのように往生には9つのランクがあり、上品上生は最高ランクです。あの源信さんですら下品上生(第7ランク)を目指されたと言われているのに、これまで人を殺めてきた直実さんが、上品上生を目指すとは、とんでもない思い上がりとも考えられます。ただ、直実さんは、経典では人を救えるのは上品上生だけなので、人を救うために上品上生を目指すと主張します。この理由をどのようにとるかは、人によって意見は分かれることでしょうが、法然さんが困ってしまったことは想像できます。

画像:熊谷直実
画像出所:熊谷商工会議所 
https://www.kumagayacci.or.jp/events_information/kumagai_jjiro/

祇園御霊会

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前回、神泉苑御霊会のお話をしましたが、その後御霊会は広がっていきます。その代表の一つが、祇園御霊会です。

869年に、全国レベルで天災が起こり、社会不安が広まったことから、全国の国の数を表す66本の矛を立て、祇園社で薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り、御霊会を執り行ったとされています。また、洛中の稚児が、祇園社の神輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈りました。

この869年の御霊会が、現在の祇園祭の起源だそうです。真夏に行われるのは、下水道の不備から疫病が流行ったのが暑い夏だったからです。現在の特色ある山鉾が使われるようになったのは、室町時代になってからだと言われています。

画像:祇園祭
画像出所:祇園祭山鉾連合会 http://www.gionmatsuri.or.jp/

神泉苑御霊会

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平安時代、京では、疫病がたびたび流行しました。当時、疫病の原因を怨霊による祟りとしてとらえられていました。

そのため、863年に、神泉苑で御霊会が行われることになります。このとき、鎮めるべき御霊とされたのは、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣(または仲成)、橘逸勢、文室宮田麻呂であります。陰陽師を神泉苑に派遣して、六柱の霊座の前に祭壇几を設け、律師慧達を招き、講師として、金光明経一部と般若心経六巻を演説させました。楽の演奏や、稚児の舞、雑技や散楽なども行われました。この日は、神泉苑の四門が開けられ、一般民衆も自由に観ることができたそうです。

御霊会が、陰陽師と僧の共同作業であったことや、金光明経と般若心経が選ばれたことが興味深いです。

画像:神泉苑
画像出所:神泉苑 http://www.shinsenen.org/

東寺

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前回、最澄さんのお話をしましたので、今回は空海さんです。

空海さんは、唐の長安に留学し、最澄さんよりも1年遅れて帰国しました。空海さんの加持祈祷を中心とした密教は、貴族社会に受け入れられていきます。そして、嵯峨天皇の支持を受け、官寺の一つ東寺を与えられます。真言宗のはじまりです。

東寺は、鎮護国家を担う仏法の中心地となり、国家祈禱が行われるようになります。空海さんで、注目すべきことは、綜芸種智院を設立して、庶民教育を行ったことです。そのため、空海さんは、貴族だけではなく、庶民からも信仰されるようになります。

画像:空海
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7

比叡山延暦寺

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桓武天皇が、平安京に遷都するとき、寺院の影響力を排除するために、南都寺院の移転を許しませんでした。そのため、平安京での寺院は、当初、官寺である東寺と西寺だけでした。

そのころ、最澄さんは、比叡山で修行をしていました。この比叡山が鬼門に当たることから、桓武天皇は、これに注目しておられました。そのため、最澄さんは入唐還学生に選ばれ、8-9か月の留学を終え、比叡山で活動を起こします。そして、正式に天台宗が認められます。ただし、僧に戒律を与える受戒の権限は、南都に握られており、その権限が延暦寺に認められたのは、最澄さん没後でした。

その後、様々な盛衰はありますが、延暦寺は大きく発展します。

画像:最澄
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%BE%84

京都清水寺:阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の石碑

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京都で最も人気な観光スポットの一つ清水寺に、阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の石碑があるのをご存じでしょうか。

阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)は、蝦夷の首長と副首長です。801年、征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷討伐に向かい、激戦の末、勝利します。ただ、田村麻呂は阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)を評価しており、東北統治に協力してもらうことを考えていました。田村麻呂は、二人を連れて京へ戻り、朝廷に二人の助命を願います。ところが、朝廷は、二人を河内国で処刑します。

清水寺は、もとは田村麻呂が開いたお寺です。この石碑は、二人の雄の冥福を祈り、有志により建立されたものです。いろいろな歴史がありますね。

画像:阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の石碑
画像出所:中世歴史めぐり 
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera-arutei.htm

愛欲の心を起こした修行僧

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『今昔物語集』に愛欲の心を起こした修行僧の話があります。

数日、夫が山に狩に行き、家に一人でいる妻のもとに、一人の修行僧が訪れました。妻は、お経を読んでもらったお礼に、食事を出し、談笑していると、僧が陰陽道にも通じていることを知ります。妻は、僧に陰陽道の祭りをお願いします。これは、山で行うものなので、二人で山に行きます。祭事が終わった後、僧はその妻に愛欲の心を起こします。妻が抵抗すると、刀を抜いて脅します。ちょうどその時、夫がその近くを通ります。音がするので、鹿だと思い、矢を射ました。なんと、その矢が、その僧を射抜いたのです。因果応報の話です。

それにしても、仏教僧が、陰陽道に通じていたり、帯刀していたことも驚きです。

画像:今昔物語
画像出所:アマゾン

撞かずの鐘

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京都報恩寺の梵鐘は、平安時代鋳造の重要文化財ですが、「撞かずの鐘」と呼ばれています。実際、除夜と大法要のときしか、つかれません。

そこには悲しい伝説があります。昔は、この鐘は、朝夕つかれていました。近くの織屋に、仲の悪い丁稚と織女がいました。二人は、この夕に鐘が幾つつかれるかかけをします。丁稚は八つ、織女は九つと言います。丁稚は、実際は九つということを知ると、慌てて寺男にその日だけ八つつくよう頼みました。何も知らない寺男は、その夕、八つだけ鐘をつきました。賭けに負けた織女は、悔しさと悲しみのため鐘楼で首をつりました。

その怨霊のたたりか、鐘をつくと不吉にことが生じるので、供養を行い、朝夕鐘をつくことをやめてしまったそうです。本当に悲しい話ですね。

画像:撞かずの鐘
画像出所:日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/z_miyako/rakuchu/houonji.html

百鬼夜行

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『今昔物語』などの説話で、百鬼夜行について紹介されています。この百鬼夜行に会うと命を落とすと言われ、当時貴族を中心に恐れられていました。室町時代には、この百鬼夜行絵巻が作成され、その様子をうかがい知ることができます。

ただ、説話と絵巻には大きな違いがあります。説話では、鬼や幽霊が行列を成しますが、絵巻では、古くなった鍋や傘といった日用品が歳を経て「付喪神」と呼ばれる妖怪が夜行します。そのため、絵巻が説話にそって書かれたかどうかはわかりません。

百鬼夜行に関する説話で、京都の一条通りが出てきます。そのため、この一条通りにある大将軍商店街では、この通りを妖怪ストリートと命名し、妖怪に関するイベントを行なっています。

画像:百鬼夜行絵巻
画像出所:京都春秋 https://kyotoshunju.com/temple/shinjuan/

一条戻り橋2

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前回に続き、一条戻り橋です。

一条戻り橋の数々の伝説の中に、陰陽師安倍晴明さんとの関係も語られています。清明さんは、式神という鬼や精霊のような存在を召使いとして使います。ただ、その式神の容貌が恐ろしいため、清明さんの妻が怖がったとされています。そのため、清明さんは、式神をこの一条戻り橋の下に隠したとされています。一条戻り橋は、平成7年に架け替えられましたが、旧い欄干の親柱が、近くの清明神社に移され、境内に旧い一条戻り橋が再現されています。

一条戻り橋の伝説は、いまでも生きており、婚礼の行列はこの橋を避けます。それは、「出戻り」にならないようにという願いが込められています。

画像:清明神社一條戻橋
画像出所:清明神社 https://www.seimeijinja.jp/guide/

一条戻り橋

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京都の一条戻り橋は、数々の伝説と結びついています。

元々、都の死者を、この橋を通じて、都の内から外の埋葬地に送っていました。この世とあの世を結びつける橋と言うことができます。

平安時代、文章博士三善清行さんが亡くなり、葬儀の列がこの橋を渡ろうとしました。その時、清行さんの息子が現れ、父の棺にすがって泣きました。そして、お経を唱えると、なんと父が生き返ったそうです。そのため、「戻り橋」と言われるようになったそうです。

また、渡辺綱さんが、女性に化けた鬼と対峙したのもこの場所です。綱さんは、鬼の片腕を切り落とします。鬼は、その腕を取り返すと言って去って行きました。一説では、この鬼は橋姫とされています。一条戻り橋の伝説は、次回に続きます。

画像:渡辺綱
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B6%B1

釘抜地蔵

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京都の石像寺は、別名釘抜地蔵菩薩として親しまれております。

弘法大師が、唐から戻るときに、石を持ち帰り、人々の苦を無くすよう、この石に地蔵菩薩を彫ったと言われています。そして、この地蔵様は、苦抜き地蔵と呼ばれましたが、いつの時からか釘抜地蔵と呼ばれるようになりました。

また、室町時代、紀ノ国屋道林とういう商人が、両手の痛みに耐えかねて、この地蔵菩薩に7日間の願かけをしました。道林さんは、7日目に夢の中で地蔵菩薩に会います。地蔵菩薩が言うには、道林さんは、前世で人を恨み、人形に八寸釘を打って呪ったそうです。そのため、現世でこうした苦しみを受けているそうです。でも、願かけのおかげで地蔵菩薩が、この人形から釘を抜き、どの釘を道林さんに見せました。道林さんは、夢から覚めると、両手の痛みが消えていました。石像寺に行くと、お地蔵様の前に血塗られた釘が置かれていたそうです。ありがたいお話です。

画像:石像寺
画像出所:わかさ生活 http://kyoto.wakasa.jp/detail/25/359/

人形の寺、京都宝鏡寺

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京都の宝鏡寺は、人形の寺として有名です。皇室との関係が深いため、皇室から人形を賜ってきました。そのため、1957年から、年に2回こうした人形の一般公開を行なっています。

また、年に1回、秋に人形供養祭が営われ、境内には人形塚が建立されています。人形を捨てることは、心情的に抵抗がある人は多いと思いますが、宝鏡寺には、全国から毎日、人形やぬいぐるみが持ち寄られます。さらに、宝鏡寺では、人形のための「人形のお守り」が販売されています。これは、人形が人に不幸ではなく、幸福をもたらすよう願いが込められています。

画像:宝鏡寺
画像出所:京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=7&tourism_id=458

東寺立体曼荼羅

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真言宗総本山東寺の講堂には、21体の仏像があります。構成は、5仏、5菩薩、5明王、6天です。中央が5仏で、中心は大日如来です。やはり、密教ですね。

5仏の両翼を5菩薩と5明王で囲みます。5菩薩の中心は、金剛波羅蜜菩薩、5明王の中心は不動明王です。さらに、その両翼をそれぞれ3天で固めます。6天は、四天王と梵天と帝釈天です。まさに立体曼荼羅と言えます。菩薩、明王ともに大日如来の化身で、人々の求めに応じて変化すると考えられています。

東寺に訪れることがありましたら、立体曼荼羅の堪能されるのも良いかもしれません。

画像:東寺立体曼荼羅
画像出所:東寺 https://toji.or.jp/mandala/

西国三十三所

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日本最古とされる巡礼路に、「西国三十三所」巡礼があります。

718年、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が亡くなります。あの世で閻魔大王に会い、人々が観音霊場に参り功徳を得られるようにするよう告げられました。そして、上人は「起請文」と極楽浄土の通行証である「三十三の宝印」を受け、現世に戻されます。

この宝印によって霊場が定められたとされています。この三十三という数は、観音菩薩が三十三の変化で人々を救うことから来ているように思います。それを、阿弥陀仏などの仏はなく、閻魔大王が告げているのが興味深いですね。昨年、西国三十三所草創1300年記念行事が行われました。

画像:長谷寺
画像出所:奈良たび https://narakankou.com/251.html

浄土美術の最後を飾る来迎図

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平安時代の源信さんの『往生要集』を起点として、発展してきました建築、仏像、絵画等といった浄土美術は、鎌倉時代に入り帰路を迎えます。浄土美術は、貴族社会での阿弥陀仏や浄土を想うという観想念仏によって主導されました。鎌倉時代になると専修・口承念仏が民衆の間で広まりますが、依然観想念仏も盛んで、貴族社会だけでなく、一般民衆にも拡大されました。そして、その主役は、民衆に移って行きます。

ただし、浄土建築や仏像といったものは、一般民衆にとって程遠い存在です。一方、来迎図は比較的手軽で、民衆教化としても有力でした。そのため、鎌倉時代には、浄土建築や仏像は衰退していきますが、来迎図は発展していきます。まさに、来迎図は、浄土美術の最後を飾ると言えるかもしれません。

画像:早来迎
画像出所:知恩院 https://www.narahaku.go.jp/collection/835-0.html

矢田地蔵縁起絵

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京都矢田寺に、地蔵縁起絵巻があり、三つのお話が描かれています。

一つは、以前もご紹介しましたが、満米上人が小野篁さんに地獄に招かれ、閻魔大王に菩薩戒を授けるというお話です。満米上人は、庶民に代わって地獄で苦しむ地蔵菩薩に会います。上人は、現世に蘇生後、仏師にこの地蔵菩薩を作らせ、これが矢田寺の地蔵菩薩像です。

もう一つのお話は、武者所康成という者が、横暴な継父を討ったとき、誤って実母も殺めてしまいます。後悔し、矢田寺で母の菩提を弔います。死後、地獄に堕ちますが、地蔵菩薩の助けで蘇生します。

三つ目は、貧しい女性が矢田寺に参拝中、子供が川で溺死します。嘆いていると、一人の僧が現れ、子供の額に灸を点じたところ、その子は蘇生し、僧はどこかへ消えてしまいます。

三つの話とも蘇生譚ですね。地蔵菩薩は、地獄から助けた人を浄土ではなく、現世に呼び戻すのでしょうか。

画像:矢田地蔵縁起絵
画像出所:奈良国立博物館 https://www.narahaku.go.jp/collection/835-0.html