マインドフルネスの効果

マインドフルネスについては、心理療法等、様々な分野で注目されています。私は専門家では、ありませんので、そのメカニズムについてはわかりません。ただ、「今ここに」ということに気づくことは、重要だと考えます。
以前もお話ししましたが、人は進化の過程で、過去から将来を予想する能力を身につけました。その結果、他の動物と違い、大きな発展を遂げます。農作を行い、将来に備えて、その農作物を貯蔵するなどは、典型例です。
こうした能力は、副作用をもたらします。四六時中、過去と未来のことばかり考えてしまいます。そして、その多くは、後悔や不安を伴うものです。例えば、天気の良い日に、公園を歩いていても、素晴らしい景色を楽しむのではなく、過去の失敗を思い出して悔いたり、将来のことを心配します。
もちろん、過去の失敗に学び、将来のリスクを予見して、事前に対策を打つというプラス面がありますが、ほぼ一日中、過去と未来に悩まされるのはどうなのでしょうか。マインドフルネスで、「今ここに」を認識することは、価値があるように思います。
画像出所:PAKUTAS
マインドフルネス

瞑想は、仏教やヨーガ以外でも盛んです。欧米、とくに米国では、マインドフルネスとして、瞑想が行われています。
マインドフルネスとは、気づきで、「今ここに」を認識することです。人は、ほとんどの時間、今を感じていなく、過ぎ去った過去を後悔したり、まだわからない未来を心配しています。こうした後悔や心配は、無駄になることがほとんどです。マインドフルネス瞑想では、そうではなく、「今ここに」あることを気づくことを行います。
仏教では、こうした気づきは、無我を認識したり、悟りのためのステップとして行われます。マインドフルネスは、この気づきの力を、日々の生活や仕事に生かそうとします。実際、グーグルなどは、企業研修に取り入れています。シリコンバレーとは、相性が良さそうですね。
画像出所:PAKUTAS
チベット仏教の瞑想
瞑想
深泥池(みどろがいけ)

京都の深泥池は、もともと地蔵信仰の厚い地域です。平安時代に小野篁が彫ったとされる地蔵像があったためです。深泥池地蔵と呼ばれていました。地蔵堂におさめられ、地域の人々の信仰を集めていました。
ただ、明治時代の神仏分離政策で、深泥池地蔵は危機をむかえます。この地域は、上賀茂神社の所轄でしたので、神社と分離させるため、深泥池地蔵は鞍馬口の上善寺に移されてしまいます。でも、その後、地域の人の努力で、五条の十念寺から地蔵像が奉納され、地蔵堂に安置されました。二代目深泥池地蔵です。
近年、深泥池は心霊スポットとして注目を集めています。タクシーが女性を乗せると、深泥池まで行くよう言われます。着くと、後ろには、女性の姿がなく、シートが濡れていたという定番の話です。
画像:深泥池
画像出所:京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005655.html
般若

今回は、渡辺章悟氏の論文を参照して、「般若」について考えてみたいと思います。
『般若心経』等で使われる般若とういう語ですが、インドの語を音写したものです。サンスクリットではパラジュニャー、パーリ語ではパンニャーになります。日本語では、「智慧」とされることが多いです。
仏教では、この智慧は、学習され、集積される知識ではなく、法(ダルマ)をありのままに観ずるものです。悟りの智慧となります。仏教徒にとって、般若はあらゆるものの中で、最高の徳を持つものになります。私もぜひ智慧を身につけたいです。
参考文献
渡辺章悟(1996)「プラジュニャー再考-ウパニシャッドから仏教へ-」『東洋学論叢』(21)p.p.76-90.
画像出所:PAKUTAS
もう一つの梵界

以前、梵界についてお話ししました。
梵我一如の結果、輪廻から解脱して到達できる世界です。苦は一切ないですが、宇宙と一体になった状態ですので、個人的な意識はありません。ただ、この梵界も、別の意味で解釈されることもあります。
ブラフマンは、宇宙の最高原理ですが、祀られるには、像などが造れず、不都合です。そのため、ブラフマンは、人格神ブラフマー(梵天)に変化します。この梵天のいる世界が、梵界と解釈されることもあります。
この梵界は、壮麗な城や自然があります。これは、何かに似ているでしょう。そう、阿弥陀仏のおられる極楽浄土です。もちろん、梵界の定義は、解脱の境地と梵天の世界の二つにきれいに分かれおらず、ミックスされることも多いです。
画像:梵天
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/梵天
大将軍八神社

清明神社以外にも、陰陽道の神社があります。京都市上京区にあります大将軍八神社です。
平安京遷都の時に、陰陽道に基づき、方位の厄災を防ぐために建てられた大将軍堂が始まりです。ただ、明治時代の神仏分離の中で、正式な祭神は、スサノウの尊とその後子8柱となりました。
それでも、陰陽道を色濃く残しております。特に、重要文化財に指定された、80体の神像を所蔵しておりますのは、大変貴重です。
大将軍八神社の隣りに、大将軍商店街がありますが、妖怪ストリートと呼ばれています。各商店で、それぞれ工夫を凝らした妖怪の像が飾られています。
画像:大将軍八神社
画像出所:大将軍八神社 http://www.daishogun.or.jp/
清明神社

前回に続き、陰陽道です。
清明さんは、現在、京都の清明神社で神として祀られています。陰陽師の神社ですので、魔除け、厄除けが中心です。境内には、先代の戻橋の親柱を移して、再現されています。清明さんが、この戻橋の下に12の式神を隠していたという伝説や、清明さんが殺された父親をここで蘇生させたといった伝説があります。
また、境内には、式神の石像や厄除桃など、普通の神社では見られないものが多くあります。
画像:清明神社
画像出所:清明神社 https://www.seimeijinja.jp/guide/
陰陽道

仏教、神道だけでなく、平安時代、貴族社会で信仰を集めたのは、陰陽道です。中国からの天文学を基に、道教、仏教、神道を吸収して日本独自の陰陽道が成立します。特に、怨霊への恐怖が高まった平安時代に、御霊信仰と結びつき、大きく発展します。
この陰陽道のスーパースターは、ご存知の安倍清明(921-1005)さんです。ただ、清明さんが大活躍されるのは、意外と晩年です。天皇や藤原氏から、大きな信頼を得ることになります。
晩年からの活躍ですが、清明さんは、なんと83-4歳まで生きられたので、たくさんの逸話を残されています。当時80歳以上生きられる人は、ほとんどいなかったと思います。さすが、陰陽師ですね。
画像:陰陽道
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽道
梵我一如再考

以前、ウパニシャッド哲学の梵我一如についてお話ししました。宇宙原理であるブラフマンと、個人に内在する本質、霊魂であるアートマンが合一するとする思想です。
ただ、ウパニシャッドを研究する人の中には、別のとらえ方をされる方もいます。湯田豊氏は、梵我一如は、フリードリヒ・マックス・ミュラーやパウル・ドイセンといったウパニシャッドを紹介した西洋の学者の解釈であると主張します。氏によれば、ブラフマンもアートマンも区別されないことになります。つまり、宇宙に存在する唯一のものがあり、それがブラフマンと呼ばれたり、アートマンと呼ばれたりするだけです。ただこの解釈でも、個人と宇宙がつながることになることには変わりがないように思います。
参考文献
湯田豊(1976)「梵我一如とウパニシャッド」『印度学仏教学研究』1号 p.p.176-179
画像:ミナークシ寺院
画像出所:エービーロード https://www.ab-road.net/asia/india/madurai/guide/14240.html
神様の宝庫、白峯神宮

白峯神宮は、スポーツの守護神として有名ですが、実は様々な神様が祀られています。
まず、崇徳天皇です。保元の乱で敗れ、隠岐に流され、悲劇の最後を遂げられた崇徳天皇は、長い間怨霊として恐れられていました。明治天皇の父である孝明天皇は、崇徳天皇の御霊を京都に迎えたいと思われました。明治天皇が、その意志を継ぎ、蹴鞠の公卿宗家であります飛鳥井家の邸宅跡地に、社殿で造られます。その後、崇徳天皇と同じように、淡路島で不幸な最後を遂げられた淳仁天皇の御霊も迎えられました。現在、白峯神宮の御祭神は、このお二人の天皇です。
ただ、蹴鞠宗家の邸宅跡地ですので、元々、「まり」の守護神、精大明神が祀られておりました。それを白峯神宮が、引き継いでいますので、サッカーの御利益があります。また、崇徳天皇とともに保元の乱で敗者となった源為義、為朝も祀られていますので、武道も期待できます。
画像:白峯神宮
画像出所:白峯神宮 http://shiraminejingu.or.jp/
千本釈迦堂(大報恩寺)と「おかめ」

京都のお寺の多くは、応仁の乱などの戦火により何度も建て替えられています。そんな中、奇跡的にこうした戦火を逃れ、約800年の歴史を刻み、京都市最古の木造建築を残しているのが、千本釈迦堂です。もちろん、国宝です。
このお寺の境内に「おかめ塚」があります。そう、お面で有名な、あの「おかめ」です。これには、悲しい伝説があります。
おかめは、本堂建築を行った大工の棟梁の妻です。棟梁は、建築で問題を抱えますが、おかめのアドバイスで、解決できます。しかし、おかめは、素人の自分のアドバイスで棟梁が仕事を完成したしたと言われるのは、夫の恥と思い、上棟式の前に自害してしまいます。自害しなくてもと思うのは、私だけでしょうか。お寺も中には、全国から奉納された、おかめの置物やお面が、展示されています。
画像:おかめ塚
画像出所:Tripadvisor https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298564-d1386079-i171267521-Sembon_Shakado-Kyoto_Kyoto_Prefecture_Kinki.html
梵天勧請

梵我一如でご紹介した、宇宙の最高原理であるブラフマンは、宗教的崇拝の対象として、神格化されます。それが、ブラフマー神、仏教では、梵天と呼ばれます。
悟りを開いたお釈迦様は、この教えを人々に伝えるかどうか、悩まれます。そこで、梵天が、お釈迦様にその悟りの内容を皆に説くよう、何度も頼みます。そして、お釈迦様は、教えを広めることを決心します。これが梵天勧請です。
宇宙の最高原理に何度も頼まれるとは、お釈迦様、すごいですね。ブラフマー神は、ヒンドウー教では、ヴィシュヌ神、シバ神とともに三大神として信仰されています。
画像:梵天勧請
画像出所:念佛宗無量壽寺 http://buddhalifestory.nenbutsushu.org/gogen/pg1807.html
インドの神様と梵界

天界が、輪廻の最上界でしかなく、天界を超越した梵界の出現で、天界を司る神様の立場が悪くなってしまいます。人々は、天界ではなく、梵界を目指し始めますので、神様への信仰が揺らぎます。そして、私達人間と同様、神様自体、絶対的な存在から、迷える存在になります。
同様なことは、日本でも起こりました。日本の神様も、仏教が伝来して、迷える存在として、仏教に帰依して、悟りを目指すことになります。逆に神様が、身近な存在になったのかもしれませんね。
画像:インドラ
画像出所:123RF https://jp.123rf.com/photo_83124680_%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99%E3%81%AE%E7%A5%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9-nanjangud%E3%80%81%E5%8D%97%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE-srikantheswara-%E5%AF%BA%E9%99%A2%E3%81%A7%E3%81%AE%E5%BD%AB%E5%88%BB%E3%80%82.html
極楽浄土と梵界

もし仏教での解脱が、梵界のような世界への移行でしたら、苦はありませんが、個人の意識もない、眠ったような状態になります。これは、個人的には、ちょっと遠慮したいかもしれません。
その意味では、解脱に至るまで、永遠に居られる極楽浄土が最高のような気がします。解脱については、極楽浄土で考えれば良いのかもしれません。極楽浄土への往生が先決です。
日本で、極楽浄土以後の悟りについて興味が持たれなかったのは、日本人が、梵界にまで思索が至ったインド人ほど、あまりにも長い先のことについては、考えなかったのかもしれません。意外と楽観的なのかもしれませんね。
画像:ブラフマー
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC
仏教とウパニシャッド哲学

お釈迦様は、ウパニシャッド哲学を否定します。例えば、自己の本質、魂であるアートマンは存在しないと解かれます。まさに、無我です。
ただ、解脱を目指すことには、共通点があるように思います。もちろん、その方法は梵我一如ではなく、仏教よる修行によってです。でも、悟りの状況とはどういった状況なのでしょうか。
お釈迦様は、生きていながら、悟り、すなわち解脱されました。その後、涅槃の中でお亡くなりになります。お釈迦様の死後の世界は、どうなのでしょうか。お釈迦様は、死後の世界については、語られません(無記)。
画像:涅槃
画像出所:駒澤大学 https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/museum/overview/zen-no-sekai/20150709.html
来世観の循環

人は元々死んで無になることを恐れて、来世について思いめぐらしてきました。
その解決方法の一つが天界です。しかし、インドの人々は、さらに思索を進めて、死の問題が天界では解決できないことに気づきます。そして、梵界に至ります。
ただし、この梵界では、個人が宇宙と一体となっていますので、無ではありませんが、死んでいる状態に極めて近いです。元々、死を克服するために思索を続けた結果、そのゴールが、元の死に戻ってきたように思われます。本当に難しいですね。
画像:ブラフマー(像)
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
梵我一如

ウパニシャッド哲学での解脱は、梵我一如です。宇宙の最高原理でありますブラフマン(梵)と、個人に内在する本質、霊魂でありますアートマンが合一すると解脱に至ります。大宇宙に遍在する永遠的なもの(ブラフマン)と、個人の中にある内なる宇宙が、一体となります。
この梵我一如で、人々はあらゆる苦から解放されます。悟りに至るのです。この輪廻から解脱に至った者は、永遠で不死の梵界に行きます。梵界は、有限である天界より優れていますので、人々はこの梵界を目指すことになります。
ただ、梵界では、宇宙と一体となっていますので、眠ったような状態、個人的意識が消滅した世界です。でも、これって死んでいるような状態では、ないでしょうか。
画像:ブラフマー
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC