来世観の循環

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人は元々死んで無になることを恐れて、来世について思いめぐらしてきました。

その解決方法の一つが天界です。しかし、インドの人々は、さらに思索を進めて、死の問題が天界では解決できないことに気づきます。そして、梵界に至ります。

ただし、この梵界では、個人が宇宙と一体となっていますので、無ではありませんが、死んでいる状態に極めて近いです。元々、死を克服するために思索を続けた結果、そのゴールが、元の死に戻ってきたように思われます。本当に難しいですね。

画像:ブラフマー(像)
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梵我一如

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ウパニシャッド哲学での解脱は、梵我一如です。宇宙の最高原理でありますブラフマン(梵)と、個人に内在する本質、霊魂でありますアートマンが合一すると解脱に至ります。大宇宙に遍在する永遠的なもの(ブラフマン)と、個人の中にある内なる宇宙が、一体となります。

この梵我一如で、人々はあらゆる苦から解放されます。悟りに至るのです。この輪廻から解脱に至った者は、永遠で不死の梵界に行きます。梵界は、有限である天界より優れていますので、人々はこの梵界を目指すことになります。

ただ、梵界では、宇宙と一体となっていますので、眠ったような状態、個人的意識が消滅した世界です。でも、これって死んでいるような状態では、ないでしょうか。

画像:ブラフマー
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC

インドでの来世観

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死んだ後どうなるか?インドでも、天国が求められました。これが天界(天道)です。天界は、快楽に満ちており、人々は、死後ここに生まれることを望みました。

ただ、天界での生は、永遠ではありません。輪廻により、天界より下の世界に再生するリスクがあります。そのため、永遠不死の歓喜の世界が必要になります。それが、梵界です。それでは、どうすれば梵界に行くことができるのか、ウパニシャッド哲学にそって、次回考えたいと思います。

画像:輪廻
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

解脱とは

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お釈迦様は、悟られ、その後亡くなれています。輪廻から解脱されていますので、六道に生まれ変わることはありません。では、亡くなられた後は、どうなられたのでしょうか。また、現在、どうされていらっしゃるのでしょうか。

私達のような一般の者は、生きている間に悟ることはできません。しかし、阿弥陀仏のご慈悲で、死んだ後、極楽浄土へ行けるかもしれません。ただ、その後、極楽浄土で悟るとどうなるのでしょうか。

こうした疑問のヒントとして、バラモン教の発展形である、ウパニシャッド哲学を見てみようと思います。お釈迦様は、ウパニシャッド哲学を否定されていますが、思想上共通している部分もありますので、参考になるかもしれません。

画像:解脱
画像出所:LINK UP TOYO https://linkuptoyo.com/buddha

山中他界観

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『今昔物語集』巻27第25話に、死んだ夫が、地獄から妻を訪ねてくる話があります。

善良な男女が夫婦になりますが、三年後夫が病気で亡くなります。妻は、毎日悲しみにくれてました。亡くなってから三年たったころ、死んだ夫が夜訪ねてきます。そして、死んで死出の山を越えた身では、恋しい人に会うことができないと嘆き、日に三度火災の業苦を受けていることを伝えて消えてしまったというお話です。

業苦という言葉から、地獄に落ちたことが推測されます。善良な男でしたので、地獄に堕ちる理由はわかりません。夫が、死出の山を越えたことを言っていることから、山中他界観の影響が垣間見られます。地獄も意外と身近ところにあるのですね。

画像:山中
画像出所:pixabey

極楽浄土と解脱

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仏教のゴールは、輪廻からの解脱(悟り)です。お釈迦様は、生きているうちに、解脱されました。普通の人には、ほとんど不可能です。

ただ、生きているうちに解脱できないと、輪廻で生まれ変わるばかりです。運よく天道、人間道に生まれ変われれば、悟りのチャンスはありますが、それ以外では難しいです。

その問題の解決の方法として、極楽浄土があります。六道ではなく、極楽浄土に生まれることにより、解脱を達成するのです。

ただ、日本では、最終ゴールが、解脱ではなく、極楽浄土になっています。極楽浄土に往生した後、解脱したという話は、ほとんど聞きません。次回以降、その理由について考えていきたいと思います。

画像:極楽浄土
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%A5%BD

平清盛さんの死

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『平家物語』によりますと、平清盛さんは、最後熱病におかされます。清盛さんは、激しい熱にもだえ苦しみます。

奥さんの時子さんは、地獄の獄卒が、清盛さんを迎えに来る夢を見ます。往生伝では、殺生してきた男が、病床で火の車を見て改心し、阿弥陀仏にすがる話があります。こうした話は、清盛さんには無縁です。

熱病に苦しみながらも、最後に言い残した言葉が、供養塔や法要がいらない代わりに、源頼朝の首を自分の墓に供えよというものでした。この時、清盛さんは出家しているのですが...。地獄を恐れない、清盛さんらしい最後です。

画像:平清盛
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B

極楽浄土の日本での受容

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前回、浄土三部経での極楽浄土についてお話ししました。

こうした浄土の風景がインドから中国を経由して、日本に入ってきました。ただ、日本では、その浄土観をそのまま受け入れるのではなく、日本古来の思想や風習と融合する形で受容しました。

まず浄土の場所ですが、想像もできないほど遠いところではなく、山や海といった身近な場所に浄土をイメージします。日本古来の山中他界観や海上他界観との融合です。また、オリジナルの金ピカの風景に対して、風景の中に日本の自然の美しさを投影します。浄土庭園が良い例です。

また、季節も一定ではなく、四季のそれぞれの美しさを取り入れます。来迎図には、桜、もみじ、雪など様々な季節の自然を同時に描かれているものがあります。こうした浄土の方が、私達にはフィットしますね。

画像:平等院鳳凰堂
画像出所:平等院 https://www.byodoin.or.jp/

浄土三部経の極楽浄土

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無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経で表現された極楽浄土を見てみます。

まず、場所については、無量寿経は「ここから西に十万億刹」、阿弥陀経は「十万億仏国土」と記載しています。刹や仏国土は国の大きさなので、まさに西の彼方にあります。インドでの距離や時間の表現は、とんでもない単位が使われます。

極楽浄土では、苦はなく、楽のみです。また、様々な宝石でできた宮殿や楼閣、同様に宝石からできた池や並木があります。日本の私達にとっては、金ピカ過ぎますね。厳しい自然の中にあった、インドや西アジアの人々の理想だったのでしょう。また、四季もありません。これは、季節の移り変わりに風情を見いだす日本人には、少し残念ですね。

画像:中央アジア、西アジア
画像出所:旅と地理 https://geography-trip.com/central-asia-agriculture/

金戒光明寺の山越阿弥陀図と地獄極楽屏風図

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前回に続き、金戒光明寺です。

金戒光明寺は、山越阿弥陀図と地獄極楽屏風図を所蔵しています。埋葬地で、他界に近い場所なので、こうした絵画は、人々に影響を与えたことでしょう。

また、関連する吉田寺(廃寺、金戒光明寺の近所)で地獄絵があったり、禅林寺に山越阿弥陀図があることも、偶然ではない気がします。金戒光明寺の山越阿弥陀図は、禅林寺のものと構図が似ています。ただ、禅林寺のものは、阿字や四天王が描かれており、密教のテイストが含まれています。

どちらの山越阿弥陀図も、臨終行儀に用いられたのは、確かです。金戒光明寺の山越阿弥陀図と地獄極楽屏風図が、一緒に作成されたかどうかは、議論のあるところです。また、この二つの絵画が、臨終行儀で対として用いられたのではないかという説もあります。ただし、山越阿弥陀図は、山中他界観を示していますが、地獄極楽屏風図は、海上他界観を表現しています。もし、臨終者がこの二つの絵画を見たなら、山中と海上という異なった極楽浄土を願うことになりますが、様々な思想を飲み込む日本の伝統としては、ありそうですね。

画像:金戒光明寺地獄極楽屏風図
画像出所:G-Call https://www.g-call.com/ext/popup/?id=908

金戒光明寺

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金戒光明寺は、「くろ谷」の愛称で知られています。法然さんが比叡山を下りて、草庵を結ばれたのが、始まりです。

この辺りは、埋葬地であったため、極楽浄土や地獄といった他界が近かったと考えられます。法然さんが、草庵の地として選ばれたのも、わかるような気がします。

かつて近くにあった吉田寺で、永観さんが迎講を行なっていました。この吉田寺には地獄絵があったらしいです。また、吉田寺にあった吉備観音像が、吉田寺が廃寺になったとき、金戒光明寺に引き継がれました。さらに、永観さんは、迎講は吉田寺で行っていましたが、本地は禅林寺です。この禅林寺には、有名な山越阿弥陀図があります。

金戒光明寺、吉田寺、禅林寺、みんな、つながっているように思えます。

画像:金戒光明寺
画像出所:金戒光明寺 https://www.kurodani.jp/

丹後聖人の狂気

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『今昔物語集』に、丹後聖人が往生したお話しがあります。

この僧は、自分宛の手紙を自分で書きます。そして、これを阿弥陀仏が自分に書いた手紙として童子に渡し、大晦日の日にこの童子から手紙を受け取ります。阿弥陀仏が自分に手紙を書き、往生を約束していると、涙を流します。

これを毎年繰り返します。まさに、自作自演です。現代の感覚から言えば、あぶない人です。

聖人は、丹後国守に頼み、自分を主人公とした迎講を開催します。この迎講の最中、聖人は臨終し往生します。聖人にとって、この迎講は、劇ではなく、本当の来迎としてとらえられたのでしょう。本人にとっては、幸せな最後だったに違いありません。

画像:今昔物語集
画像出所:四季の美 https://shikinobi.com/konjaku

折口信夫さんと山越阿弥陀図

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山越阿弥陀図は、仏教研究者や美術研究者だけでなく、民族学者である折口信夫さんの興味もひいたみたいです。

折口さんは、「山越し阿弥陀像の画因」という論文を書かれています。この論文で、山越阿弥陀図が、日本古来の日祀りに由来する、日想観の影響を受けていることを指摘します。また、極楽浄土が山の端の向こうにあるとする、日本独自の他界観も言及されています。そして、この山越阿弥陀図を日本式の浄土変相図であると主張しています。

確かに禅林寺の山越阿弥陀図には、太陽のようなものが描かれていますが、これは月だと思います。阿字が同時に描かれていますので、密教の月輪観の影響でしょう。ただ、山越阿弥陀図を日本の浄土変相図とする考えに、非常に共感します。

参考文献
折口信夫「山越し阿弥陀像の画因」青空文庫

画像:禅林寺山越阿弥陀図
画像出所:東京国立博物館 https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5375

瑞泉寺(京都)

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京都木屋町通に、瑞泉寺というお寺があります。

このお寺は、豊臣秀吉さんの甥、秀次さんとその一族を弔っています。謀反の嫌疑をかけられた秀次さんは、高野山で切腹し、一族30余名が三条河原で打首となりました。遺体は、河原に埋められ、「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が建てられました。本当に痛ましい事件です。

お寺ができ、一族が供養されるようになったのは、江戸時代に入ってからです。

早良親王や菅原道真さんのタタリを恐れ、神社を建立した天皇や貴族と違い、武士、それも戦国武将であった秀吉さんにとって、秀次さんのタタリなど気にしなかったかもしれません。

画像:瑞泉寺
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E6%B3%89%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

迎講と来迎図2

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前回に続いて、安藤香織氏の説をご紹介します。

氏は、迎講が隆盛期を迎えた12世紀前半、往生伝や彫刻は、迎講とイメージを共有していたと指摘しています。これは、迎講が、当時の人々が思い描いた来迎の具現化であるからです。

ただ、来迎図は、事情が違っていました。来迎図特有のルールがあり、迎講のモチーフを取り入れるのに時間がかかることになります。その一つが、来迎図は坐像であったことです。一方、迎講は立って歩きますので、その差は大きいです。

ただ、来迎図は、次第に迎講のモチーフを取り入れ、坐像から立像に変化していきます。その過渡期として、高野山所蔵の阿弥陀聖衆来迎図に描かれた腰鼓菩薩に注目しています。この菩薩は、立っているのにもかかわらず、膝からしたが雲に隠されて、他の坐形の菩薩に紛れるような描写になっています。以上が、氏の説のご紹介です。腰鼓菩薩の描写は、坐像の伝統と、立像の迎講の影響との狭間での表現方法だったのでしょう。

参考文献
安藤香織(2010)「来迎図の尊像構成と迎講に関する一考察ー法華寺本菩薩・童子幅を中心にー」東京国立博物館研究誌625、p.p.39-59.

画像:高野山聖衆来迎図
画像出所:世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/glossary/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E8%81%96%E8%A1%86%E6%9D%A5%E8%BF%8E%E5%9B%B3/

迎講と来迎図

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迎講は、来迎図、往生伝、仏像彫刻など、様々な往生文化に影響を与えています。今回は、迎講が来迎図に与えた影響について、安藤香織氏の説をご紹介します。

氏が、指摘されたのは、持幡童子の存在です。もともと、来迎図のコンセプトに持幡童子の存在はありません。それが、時代が下がるにつれ描かれるようになりました。迎講では、左右に持幡童子を先頭に行進します。まさに、迎講が来迎図に影響を与えたと言えます。

実際、持幡童子が描かれた来迎図は、法華寺所蔵阿弥陀三尊像及び童子像、東京国立博物館所蔵阿弥陀聖衆来迎図、福島県立博物館所蔵阿弥陀二十五菩薩来迎図、勝願寺所蔵阿弥陀聖衆来迎図、禅林寺所蔵山越阿弥陀図になります。氏は、これらに描かれた持幡童子が二体一対になっていることから、迎講との対応関係を指摘しています。

参考文献
安藤香織(2010)「来迎図の尊像構成と迎講に関する一考察ー法華寺本菩薩・童子幅を中心にー」東京国立博物館研究誌625、p.p.39-59.

画像:法華寺所蔵童子像
画像出所:Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA

補陀落寺(京都)

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京都市左京区に補陀落寺があります。本尊は阿弥陀仏で、阿弥陀三尊像が置かれています。ただ、お寺の名前が補陀落寺であることに違和感を持ちました。補陀落浄土は観音菩薩の浄土です。

もちろん、三尊像ですので、観音菩薩もおられますが、あくまで本尊は阿弥陀仏です。

調べてみますと、平安時代、本尊は千手観音像だったのですが、延焼してしまったそうです。

ところで、このお寺の通称は小町寺です。小野小町が晩年すごしたと伝わっています。小野小町老衰像(すごい名前です)もあります。ただ、小野小町の墓地は、全国各地にありますので、真偽はわかりません。

画像:補陀落寺
画像出所:京都観光NAVI https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=7&tourism_id=449


来迎讃と迎講

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前回に続き、来迎讃です。

来迎讃についは、鈴木治子氏が、興味深い研究をされています。氏によれば、来迎讃は、法然さん門下で、病中あるいは臨終時に決まって唱えることが定着化していたそうです。

その後、時代が下がり、時宗教団でも用いられます。ここでも、臨終時に唱えられたと考えられます。

来迎讃は、迎講でも唱えられます。そのため、来迎讃によって菩薩のしぐさや演技が決められているという説がありますが、氏はこの説に否定的です。当時、迎講によって、様々な和讃が選択され、来迎讃はその一つであったということです。後代になって、迎講で必ず来迎讃が唱われるようになったと結論づけされています。勉強になります。

参考文献
鈴木治子(1986)「「来迎讃」と迎講」『国文学踏査』(14)、p.p.43-51.

画像:二十五菩薩来迎会
画像出所:小諸市 https://www.city.komoro.lg.jp/official/kanko_sangyo/kanko/rekishi_bunka/3652.html

和讃

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仏や菩薩、あるいは教典を和語で賛美した歌が和讃です。和語でかつ七五調で覚えやすいく、さらに当時の流行の旋律で歌われたため、一般民衆への普及に大きく貢献しました。

その中で、来迎讃があります。現在、様々なバージョンがあり、オリジナルを限定することができません。また、源信さんの作と伝わっていますが、真偽はわかりません。

迎講でも、この来迎讃が使われています。浄土仏教関係の様々な会や、個人の信仰としても用いられてきたと考えられます。これを歌えば、極楽浄土が近づくかもしれませんね。

画像:三帖和讃
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B8%96%E5%92%8C%E8%AE%83

当麻氏

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當麻寺は、当麻曼荼羅や迎講など、極楽浄土に近いお寺です。この當麻寺を氏寺として創建した当麻氏とは、どのような氏族だったのでしょうか。

永藤靖氏によれば、当麻氏は、元々、葬送に携わっていたそうです。宮中の葬送に関わる儀礼を執り仕切っていたと考えられます。二上山を有する当麻の地は、葬送の地でもありました。

ところが、時代とともに葬送の儀礼が簡略化され、仏教という新しい宗教の影響力が強まり、さらに、葬送の地も移動して行きます。当麻氏は、生き残りをかけ、仏教を積極的に取り入れます。その結果、これまでの葬送経験を生かし、當麻寺を阿弥陀信仰を発信する寺として、発展させたと考えられます。やはり、変化していかないと生き残れないのですね。

参考文献
永藤靖(2005)「メディアとしての迎講ー生と死のトポス・当麻寺ー」『文芸研究』95、p.p. 1-16.

画像:二上山
画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E5%B1%B1_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%83%BB%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C)