野宮神社

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京都の嵯峨野に、古い伝統のある野宮神社があります。未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)等から、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が選ばれました。この斎王が、伊勢へ行く前に身を清めたのが、この野宮神社でした。現在では、良縁と『源氏物語』で有名です。

『源氏物語』では、光源氏が六条御息所と最後の逢瀬を重ねたのが、この野宮神社です。その意味では、別れの場となっているのですが。もともと良縁の御利益で知られていたなら、『源氏物語』は迷惑なお話です。それとも、この『源氏物語』で、悪縁を断つということから良縁に変じたのでしょうか。

画像:野宮神社
画像出所:京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=7&tourism_id=501

着ぐるみの阿弥陀仏像

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前回に続き、当麻寺の阿弥陀仏像です。

關信子氏は、この阿弥陀仏像を研究され、面白い発見をされました。結論から申し上げますと、なんと着ぐるみなのです。まず、像が上下に分かれます。頭部から法衣の裾までの部分で分かれます。上部に人がはいるのでしょう。また、覗き穴があります。さらに、像内に背負うための工夫がなされています。

こうした着ぐるみですので、阿弥陀仏像としては、奇異な印象を与え、芸術的な評価は高くないとされています。それは、人が入るため、軽量化等の工夫が優先され、芸術的な部分が犠牲になっていると考えられます。この阿弥陀仏像こそ、迎講で使われ、人が入って歩いていたものです。再び、迎講で用いられたら、おもしろいですね。

参考文献 關信子(1995)「"迎講阿弥陀像"考Ⅱ-当麻寺の来迎会と弘法寺の迎講阿弥陀像-」仏教芸術 (223), pp.77-102.

画像:當麻寺
画像出所:當麻寺 http://www.taimadera.org/purpose/2/index.html

当麻寺迎講の阿弥陀仏像

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最も有名な迎講の一つとして、当麻寺練供養会式があります。何度か、このブログでも採り上げました。

この迎講で、ひとつ不思議なことがあります。この迎講、阿弥陀仏が登場しないのです。観音菩薩、勢至菩薩ら二十五菩薩が出てくるのですが、主人公である阿弥陀仏が登場しません。ただ、長い歴史を持つ迎講ですので、過去は阿弥陀仏が登場しておりました。これは、16世紀に描かれた「當麻寺縁起」の迎講の場面でも、阿弥陀仏が描かれていることからも確かです。実際、阿弥陀仏の像は本堂に置かれています。

この阿弥陀仏像について、關信子氏がたいへんおもしろい研究をされていますので、次回、ご紹介したいと思います。

参考文献 關信子(1995)「"迎講阿弥陀像"考Ⅰ-当麻寺の来迎会と弘法寺の迎講阿弥陀像-」仏教芸術 (221), pp.100-132.

画像:當麻寺縁起
画像出所:ブッダワールド http://www.buddha-world.jp/file/pickup/vol015/index.html

等持院

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等持院は、足利尊氏さんが、足利氏の菩提寺である等持寺も別院として建立されました。その後、この等持寺も等持院に移されて、等持院が足利将軍家歴代の菩提所となりました。そのため、尊氏さんの墓所を見ることができます。

等持院で最も有名なのは、霊光殿です。ここでは、足利歴代の将軍像が安置されていますが、なぜか5代義量さんの像と14代義栄の像が欠けています。その代わりに、なんと徳川家康さんの像があります。家康さんの像は、はじめ石清水八幡宮豊蔵坊にありましたが、廃仏毀釈後に等持院に移されました。

1863年に、尊王攘夷派によって、足利歴代の将軍像のうち初代・尊氏さん、2代・義詮さん、3代・義満さんの像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の河原に晒されました。足利三代木像梟首事件です。

画像:霊光殿
画像出所:等持院 https://toujiin.jp/about.html

真如堂縁起絵巻

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京都の真如堂(正式名称:真正極楽寺)に、室町時代後期に描かれた「真如堂縁起絵巻」があります。

上中下3巻から成り、上巻は本尊阿弥陀如来について、中巻は真如堂創建の由来、そして下巻が真如堂の歴史等です。とくに、この下巻には、応仁の乱の様子がビジュアルに表現されているため、当時の戦争の様子について貴重な資料となっています。

東岩倉の戦いが描かれていますが、この戦いで、南禅寺などとともに、真如堂は焼失しました。1692年、この焼失を機に写本が制作され、毎年、宝物虫払会(7月25日)にこの写本が一般公開されています。

画像:真如堂縁起絵巻
画像出所:真如堂 https://shin-nyo-do.jp/about/art/

臨床宗教師

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前回、ターミナルケアについてお話しました。終末期の患者の精神的苦痛を緩和・軽減するのは、医療関係者だけでは限界があります。宗教者の助けが必要になります。

そうした、専門家として、臨床宗教師という資格があります。元々は、2011年3月の東日本大震災による被害者の方々の心のケアが発端です。その後、その活動の場が、医療機関に拡大していきました。

講座を受けることによって、資格が付与されるのですが、講座の受講者は、特定の宗教に限られていません。その意味では、全宗教的な取り組みですね。今後、発展していくことが期待されます。

画像:臨床宗教師記事(河北新報)
画像出所:東北臨床宗教師会
https://www.ht-rinshu.com/single-post/2019/11/10/%E8%87%A8%E5%BA%8A%E5%AE%97%E6%95%99%E5%B8%AB%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B%E6%8E%B2%E8%BC%89

ターミナルケアと臨終行儀

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現在、医療の中心は、いかに病気を治療し、長生きをさせることです。ただ、余命わずかな患者に対して、こうした治療だけでは対応できません。そのため、こうした患者に対して、身体的苦痛や精神的苦痛を緩和・軽減するターミナルケアの重要性が注目されています。

このターミナルケアのヒントとして、日本で長い歴史を持つ臨終行儀が再考されています。とくに精神的苦痛の緩和には、参考になる部分が多いように思われます。臨終行儀も長い歴史の中で変化してきました。これは、実際の臨終時での様々な経験が積み重なって、教義による形式的なものから、徐々に実践的な行儀に変わってきたと考えられます。いわゆるノウハウの蓄積ですね。もちろん、時代が違うことも確かですが、ターミナルケアにとって、臨終行儀は気づきを与えてくれるように思います。

画像:ターミナルケア
画像出所:ジョブメドレー https://job-medley.com/tips/detail/923/

藤原忠実の怨霊

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前回、藤原忠実さんのお話をしましたが、実は忠実さんの怨霊の話があります。

忠実さんは、怨霊の代表である崇徳上皇と同時代の人です。保元の乱では、忠通さん、頼長さんという忠実さんの二人の息子が、天皇方、上皇方に分かれます。忠通さんが天皇方、頼長さんが上皇方です。忠実さんは、頼長さん方につき、敗北します。命は助かりますが、幽閉されます。そして、忠実さんは亡くなりますが、忠実さんと対立していた忠通さんは、法要を行わなかったと言われています。

その後、忠通さんの一族に不幸が続きますと、忠実さんの怨霊の祟りによるものだと思われました。その結果、忠実さんの怨霊を鎮めるために法華八講が行われるようになりました。崇徳上皇をはじめ、保元の乱の敗者は、怨霊にされることが多かったのですね。

画像:藤原忠実(大河ドラマ)
画像出所:チャンネル銀河 https://www.ch-ginga.jp/feature/kiyomori/cast/

福大明神社

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京都に、小祠として民家の中にある福大明神社があります。ここに祀られているのが、紀貫之という説や荼吉尼天という説があります。

荼吉尼天は、インドでは夜叉・羅刹でしたが、その後仏教に帰依したことになっています。日本の中世では、荼吉尼天は願望成就の神様となりましたが、その力はあまりにも強力であり、祀り方を間違えると大きな不幸を招くので、外法とされていました。それでも、荼吉尼天に頼る人もいます。

『古今著聞集』では、関白藤原忠実さんが信仰したことが記されています。藤原忠実さんがある願いをかなえようと、修験僧に荼吉尼の法を行わせました。その後、忠実が昼寝をしていると、夢に絶世の美女が現れ、忠実が思わず女の髪をつかむと髪は切れてしまい、目が覚めました。手に残った髪を見てみると、なんと狐の尾でありました。その後、忠実さんの大望はかなえられたそうです。

画像:福大明神社解説
画像出所:国際日本文化研究センター
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_023.html

大豊神社

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887年に、宇多天皇の病気平癒祈願のために、医薬の祖とされる少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀って創建されたと言われています。後に、応神天皇と菅原道真公が合祀されました。御存じのように、宇多天皇は道真さんの後ろ盾でしたので、関係があるのかもしれません。この神社が、全国的に有名になったのは、末社の大国社に狛犬の代わりに狛ねずみが奉られていることです。また、別の末社の愛宕社には火伏せの狛鳶(とび)、日吉社には鬼門除けの狛猿が守っています。

また、神社は、鹿ケ谷にあります。そう、後白河法皇が、藤原成親、西光、俊寛らと平氏打倒の陰謀が語られた鹿ケ谷山荘の近くです。

画像:大豊神社、大国社
画像出所:Kyoto design https://kyoto-design.jp/spot/8321


仏教と穢れ

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前回ご紹介した『今昔物語集』巻29第17話「小屋寺の大鐘が盗まれる話」に、仏教と穢れについて興味深い箇所があります。

死が穢れているという古来の信仰から、神社等では死体を遠ざけます。この物語でも、村人は、寺から死体を処理するよう頼まれますが、年に1回の村の祭りがあるので、穢れに近づきたくないと断ります。たぶん、死体に近づくと、神輿が担げなくなるのでしょう。これは、現代にも当てはまります。

ただ、この物語で興味深いのは、僧も穢れを嫌がるところです。現代は、お寺と葬式は切っても切れない関係ですが、この物語の頃は、まだ、その関係が確立していなかったのでしょう。そのため、僧自身が、死体からできるだけ離れようとし、物語であるような詐欺に遭ってしまったのでしょう。

画像:神輿
画像出所:東洋不動産 https://toyo-fudousan.co.jp/contents/377

お寺が大掛かりな詐欺に遭うお話

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『今昔物語集』巻29第17話「小屋寺の大鐘が盗まれる話」は、当時としては、大掛かりな詐欺のお話です。

摂津の国に小屋寺というお寺がありました。その小屋寺の住職のところに八十歳くらいの旅の僧が訪ねてきて、しばらく泊めてほしいと頼みます。住職が適当な場所がないと伝えますと、老僧は鐘つき堂の下でかまわないというので、住職は了承しました。数日後、なんと、この老僧が亡くなります。お寺の僧も、村人もこの死体の処理を嫌がり、住職は困ってしまいました。そこに、老僧の子供を名乗る二人の男が訪ねてきて、父親の死体を持ち帰ると伝えます。そして、45人ほどの男が鐘つき堂に来て死体を持ち帰っていきました。ただし、僧も村人も穢れを怖れてその様子を見た者はいませんでした。

30日が過ぎて穢れの期間が終わったころ、鐘つき堂に行ってみると、なんと大鐘が盗まれていました。老僧は死んだふりをしていただけで、仲間が鐘を運び出したのでした。総勢50人近い詐欺集団ですね。

画像:大鐘
画像出所:ニッポン旅マガジン
https://tabi-mag.jp/todaiji1231/

往生講の講義内容

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前回に続き、永観さんの往生講です。

講義内容は、「発菩提心門」、「懺悔業障門」、「随喜善根門」、「念仏往生門」、「讃嘆極楽門」、「因円果満門」、「回向功徳門」の七門になり、この順番に講義が進みます。この中で、一番重要なのが、「念仏往生門」です。「念仏往生門」では、阿弥陀仏の悲願のおかげで、皆が極楽浄土に往生できることを説き、重要なのは一心称念の念仏であることが強調されます。一心称念の念仏を行うことによって、臨終には、聖衆の来迎を受けて極楽浄土に往けることが説かれます。

講義の間には、礼拝や十念などの所作が入ることになり、宗教的な雰囲気が道場に満ちたことでしょう。参加者は、極楽往生を確信できたことだと思われます。

画像:みかえり阿弥陀像
画像出所:永観堂 http://www.eikando.or.jp/mikaeriamida.html

永観さんの往生講

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永観さんは、禅林寺で定期的に「往生講」を行っていました。参加者は、貧民や病気の者であったと言われています。その意味では、現代で言う慈善事業の一つと言えます。

こうした参加者に対して、阿弥陀仏の来迎を説きました。往生講が行われた道場では、西の壁に阿弥陀仏の像が置かれています。往生講が始まる前に、まず、講師と式衆が入場し、その仏像の前に華や香が供えられていきます。こうした供養の所作の後、いよいよ参加者が入場し、阿弥陀仏の仏像に相対して、座っていきます。参加者が座った後、式衆によって再び供養が行われます。公演に先立ち、三宝への帰依の念をささげ、公演の趣旨が読まれます。そして、極楽往生への所願の成就が祈られ、講師による公演に移ります。

次回、この公演の内容についてお話します。

画像:永観堂
画像出所:LINEトラベル
https://www.travel.co.jp/guide/article/35447/

浄土思想の変遷

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浄土思想は、源信さん(942-1017)から法然さん(1133-1212)へといった比叡山天台宗の流れの中で考えられますが、実はもっと幅広い宗派で発展してきました。例えば、東大寺三論宗の永観さん(1033-1111)、真言宗の覚鑁さん(1095-1144)なども、浄土思想への貢献は多大なものがあります。

宗派を超えた浄土思想の発展の背景には、当時、宗派の中で宗派を超えた教義が学ばれていたことや、そうした僧の交流などが行われていたことが要因になっていると思われます。また、当時の民衆が浄土思想を求めていたことも、その理由かもしれません。各宗派は、信徒獲得のためには、浄土思想を取りこむ必要があったかと思います。

余談ですが、覚鑁さんを除く、源信さん、永観さん、法然さん、皆さん長生きですね。70代後半まで生きてられました。当時としては、とんでもないご長寿です。法然さんの後の親鸞さん(1173-1263)は、なんと89歳で亡くなられています。


画像:親鸞聖人
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E

往生語り

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通夜などで、故人を偲ぶ話が出ますが、その中で、故人の仏道への傾倒が語られることがあります。例えば、よくお寺にお参りに行っていたとか、写経をしていたなどです。もちろん、少し大げさに語られますが、誰も否定しません。こうしたお話は、故人が極楽に往生したことをみんなで確かめる、あるいは願う気持ちから来ていると思われます。

さらに、自らの死を予期していたとか、死の間際に家族・友人に突然連絡を取ったりしたことも話されます。これらも、往生したことの一つの証拠として語られます。まさに、往生語りです。日本の古代からの往生伝の延長線上にあるかもしれません。

日本の古き伝統ですが、昨今、こうした伝統が急速に廃れてきているように思います。少し寂しい気持ちがしますのは、私だけでしょうか。

画像:通夜
画像出所:神奈川県斎場
http://www.saijyo-kanagawa.com/manner/tsuya.html

下御霊神社

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京都の下御霊神社では、8人の神様が祀られていますが、その2人は、伊予親王とその母藤原吉子大夫人です。

伊予親王は、桓武天皇の子供で、平城天皇の異母弟になります。平城天皇の治世、朝廷が、藤原宗成が伊予親王に対して謀反を勧めているとの情報を得ます。そのため、この宗成さんは捕らえられ、尋問されます。そこで、宗成さんは、なんと謀反の首謀者が伊予親王であると密告します。その結果、伊予親王とその母は幽閉されました。二人は、身の潔白を主張したが聞き入れられなかったため、毒を飲んで自殺します。その後、伊予親王と藤原吉子大夫人の無実が証明されます。そのため、この二人の怨霊が怖れられ、下御霊神社で祀られているのでしょう。ちなみに、宗成さんは流罪となりますが、その後赦され、復権します。不思議ですね。

画像:下御霊神社
画像出所:下御霊神社 http://shimogoryo.main.jp/

丹生明神・高野明神

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前回、高野山で祀られている丹生明神・高野明神のお話をしました。この二神は、元々、和歌山県の天野というところにある丹生都比売神社に祀られています。この二神が高野山金剛峰寺に取り込まれた背景について、脊古真哉氏が次のように結論付けています。

「開創以前からの在地の神であった丹生都比売神が、最初は仏法に帰依して救済される存在として開創説話の中に取り込まれた。続いて高野山の鎮守神として丹生都比売神の子である高野御子神が創出された。さらに猟師/山人開山説話の要素が付加され、丹生都比売神社・高野御子神・猟師/山人は丹生明神と高野明神の二神に再構成され、高野山の地主神・鎮守神として護法善神と位置付けられるようになる」。

非常に興味深いですね。

参考文献
脊古真哉(2018)「高野山開創説話と丹生明神・高野明神」日本仏教綜合研究第16号、pp.29-52.

画像:丹生明神・高野明神
画像出所:パワースポットNavi
http://www.powerspotnavi.com/wakayama/takanomyojin.htm

高野山の神仏習合

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『今昔物語集』巻11第25話「弘法大師、始めて高野の山に建たる語」に、高野山金剛峰寺建立のお話があります。

弘法大師は、京都を出て、奈良県五條市付近で、犬飼に会います。弘法大師は、この犬飼に、入定するのにふさわしい霊妙な洞窟を探していることを伝えます。犬飼は、その場所知っていると言い、弘法大師を高野山に導きます。次に、弘法大師は、高野山で山人に会います。山人は、弘法大師に広大な土地を寄進します。その後、この山人が丹生明神、犬飼が高野明神であることがわかります。

この二人の明神は、高野山への登山道の下で、鳥居を並べて、この山を守っているそうです。まさに神仏習合ですね。これは、比叡山延暦寺と日吉社との関係に似ています。

画像:高野山金剛峰寺
画像出所:高野山金剛峰寺 http://www.koyasan.or.jp/kongobuji/

信貴山縁起絵巻(中巻)

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前回に続き、『信貴山縁起絵巻』です。

中巻「延喜加持の巻」は、醍醐天皇が大病を患い、様々な治療を行いますが、いっこうに回復しません。そこで、信貴山の命蓮さんの噂を聞きつけ、勅使が彼の下を訪れます。命蓮さんは、護法童子を天皇の下に遣わせます。護法童子は天空を駆けて、天皇のところに行き、天皇は回復します。勅使は、お礼に何か欲しいものはないか命蓮さんに聞きますが、命蓮さんは固辞します。命蓮さんの徳の高さが表されています。

ところで、醍醐天皇は、藤原時平さんとともに、菅原道真さんを失脚させてしまいます。道真さんの死後、怪異が続きます。その結果、道真さんの怨霊を怖れ、病床の下で亡くなります。命蓮さんに、頼らなかったのでしょうか。

画像:信貴山縁起絵巻(中巻)
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7