演劇的迎講

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極楽浄土から阿弥陀仏と聖衆が、臨終者をお迎えにくる様子を演劇的に表現する「迎講」という法会があります。今日でもいくつかの寺院で行われていますが、奈良の当麻寺の「練供養」がとくに有名です。

源信さんが始めたとも言われますが、当時どのような迎講であったかは、まだよくわかっていません。現在のようなスタイルは、諸説ありますが、12世紀前半に始められたとされています。それ以前の迎講と分けるため、演劇的迎講と言われることもあります。

この演劇的迎講は、書物によって伝えられていますが、絵画して示されていますのが、當麻寺縁起に描かれた迎講となります。1532年の作品ですので、当時と現在の迎講を比較するのも面白いかもしれません。

画像:當麻寺縁起
画像出所:ブッダワールド http://www.buddha-world.jp/file/pickup/vol015/index.html

高野山納骨

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高野山は、真言密教の総本山です。即身成仏を目指し、極楽浄土の浄土思想とは相容れないこことが多いです。でも、元々、山岳信仰の影響もあり、山自体に往生を見る信仰も受け継がれています。そのためか、12世紀頃から、遺骨や遺髪を納めることが行われ始めました。はじめは、皇族や貴族が中心でありましたが、徐々に庶民にも広まってきました。

高野山側も、こうした往生信仰を布教に用いるようになります。聖が全国に唱導を行って、納骨を勧めていきました。とくに、源信さんの『往生要集』以降は、高野山側でも、浄土思想を積極的に教義に取り入れていきます。もちろん、真言密教と浄土思想には矛盾も多いですが、その融合を図る取り組みも行われ行きます。とくに覚鑁さんは、その両者の思想的統一に多大な努力をしました。

画像:覚鑁
画像出所:慈眼寺 http://www.sakado-jigenji.jp/column/5.html

豊臣秀次さんの怨霊

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前回、『雨月物語』を取り上げましたので、今回もその話を紹介します。

『雨月物語』では、崇徳上皇以外にも、豊臣秀次さんの怨霊のお話もあります。御存じのように、秀次さんは、伯父の豊臣秀吉さんに、本人だけでなく一族全て殺されました。その恨みは、崇徳上皇に勝るとも劣らないものです。ただし、物語の中で、秀次さんの怨霊は、この世に災いを成すようなことはしておりません。怨霊としては、害が少ないと言えます。

これは、怨霊を生み出した人によるのでしょう。崇徳上皇の場合は、ライバルである後白河天皇やその配下の貴族です。彼らは、崇徳上皇の恨みを恐れました。これは、他の大怨霊として恐れられている早良親王、菅原道真さん、平将門さんと類似しています。早良親王の怨霊を恐れたのは桓武天皇、菅原道真さんの怨霊を恐れたのは醍醐天皇と藤原氏、平将門さんの怨霊を恐れたのは朝廷です。つまり、皇室や貴族が怨霊を恐れたのです。一方、秀吉さんは、最も残酷なことをしたのにもかかわらず、秀次さんの祟りなどまったく気にかけなかったのでしょう。貴族と戦国武士の違いが、怨霊の違いに影響を与えていると考えられます。

画像:豊臣秀次
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1

崇徳上皇の呪い

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平安時代の怨霊の代表格は、保元の乱で恨みを残し亡くなった崇徳上皇です。

朝廷は、様々な崇徳上皇の怨霊を鎮めることを行いましたが、結果はどうなのでしょうか。時代は下がり、江戸時代に上田秋成さんによって書かれた『雨月物語』に、「白峰」という物語があります。これは、平安時代、西行さんが崇徳上皇の怨霊を成仏するように説得するお話です。結論から申し上げますと、崇徳上皇の恨みは大きく、西行さんの説得は失敗します。崇徳上皇の呪いで、平治の乱が起きますが、源平の合戦も引き起こされようとするところで話は終わります。

江戸時代において、崇徳上皇はまだ鎮まっていないと捉えられていたのかもしれません。光明天皇・明治天皇によって京都に建立された白峯神宮に、崇徳上皇の霊をお招きしたのは、そうした背景があったのかもしれません。

画像:崇徳上皇
画像出所:歴史マガジン https://rekijin.com/?p=31470

『往生要集』の臨終行儀

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臨終行儀は、源信さんの『往生要集』が起点となっていますが、どのような内容なのでしょうか。今回は、作法ではなく、看病人双方の心得についてお話した意と思います。『往生要集』には、この心得を十項目で示しています。神居文彰氏は、その十項目を以下のように要約されています。
1.大乗の教えに帰依。三宝に帰依すること。
2.この世界を厭い、遠ざかる。
3.浄土を欣求する。
4.往生のための行(業)を行う必要がある。
5.悟りを求める心を発して、念ずる。
6.ひとえに阿弥陀仏を念じて、修業を更に盛りたてる。
7.阿弥陀仏の身体の一つの相を念じて、心をその一点に集中させる。
8.阿弥陀仏の大悲の光明は、必ず照らして下さることを知る。
9.阿弥陀仏は、必ず、大光明を放ち、聖衆とともに引接し、擁護して下さることを知る。
10.一心に阿弥陀仏を念じて、必ず西方浄土に往生する。
このうち、7、8、9条が最重要となるそうです。

参考文献
神居文彰・藤腹明子・長谷川匡俊・田宮仁(1993)『臨終行儀』北辰堂

画像:往生要集
画像出所:アマゾン

捕鳥部万(ととりべ の よろず)

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捕鳥部万さんは、飛鳥時代に物部氏に仕えた武人です。物部氏は、丁未の乱で蘇我氏に敗れ、捕鳥部万さんも逃げますが、追手が迫ります。日本書紀では、追手に対して、弓矢で30人ほど射殺しますが、最後、首を小刀で刺して自害したと伝わっています。朝廷は、万の死体を八つに切り、串刺しにして八つの国にさらすよう命じます。

民俗学者折口信夫さんの説によると、日本古来では、霊魂の復活を怖れて死体を分割する習慣があったそうです。その意味では、朝廷は、捕鳥部万さんの復活を怖れて、このような指示を出したのかもしれません。ただ、実際串刺しにしようとすると様々な怪異現象が起こったため、墓に葬られたそうです。

画像:捕鳥部万
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E9%B3%A5%E9%83%A8%E4%B8%87

源信以前の臨終行儀

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臨終行儀は、源信さんの『往生要集』や「二十五三昧会」で広がりますが、それ以前はどうだったのでしょうか。

皇室では、殯(もがり)が行われておりましたが、それ以外の人々については、あまりよくわかっていません。中国の文献に臨終行儀について書かれたものがあり、日本にも伝わっていましたが、それが実践されていたかは微妙です。僧が、臨終を迎えようとする人に寄り添うことはあったのですが、僧の役割は、病気の治癒であって、臨終を取り扱うものではありません。臨終や葬儀には、別の専門家が行ったそうです。それが、徐々に臨終行儀や葬儀が僧に移っていったのは、興味深いですね。

画像:来目皇子殯斂地
画像出所:eo  http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/west/009.htm

イスラムの死生観

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イスラムでは、輪廻転生のような概念はなく、1回の現世と1回の来世のみです。

現世において、終末が到来し、神の裁きが行われます。死んだ人も、その日に蘇ります。死んだら、すぐに来世が始まる訳ではないのです。来世は、この週末の日から始まります。来世は、永遠で、天国と地獄に分けられます。輪廻転生のように、何度も生まれ変わって、善行を積み上げていくのではなく、1回の現世の行いがすべてになります。その意味では、チャンスはこの1回の人生のみとなります。

画像:モスク(アスワン)
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF

中国の山中他界観

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前回に続き、中国の死生観です。古代中国では、魂は山東半島の根元にある泰山に還ると信じられていました。鬼を治める神様が、そこにいると信じられていました。

他界を、この世から離れたところではなく、身近な山に想定することは、日本の山中他界観に通じるものがあるように思われます。その後、仏教の影響で浄土や地獄の概念が入ってきます。浄土は、上清天という天上に考える信仰が出てきます。また、泰山は地獄としての役割に変化していきます。

この地獄では、三官と呼ばれる者たちが、視野の籍簿を持って、管理していると考えられました。閻魔大王をはじめとした十王に近い存在でしょうか。遠く離れた世界に、地獄を想定するインドの死生観とは異質です。日本は、この中国の他界観に近いのかもしれません。

画像:泰山
画像出所:世界遺産オンラインガイド
https://worldheritagesite.xyz/mount-taishan/

中国の死生観

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中国の死生観は、どのようなものなのでしょうか。日本のように極楽浄土を願っているのでしょうか。

中国の場合、儒教や道教が大きな影響を持っています。儒教は、宗教かどうか微妙ですが(儒学の方が良いかもしれませんが)、死についてどのように考えているのでしょうか。孔子さんは、死の問題等、現実から離れた話題を避けていたと言われており、思索はこの生をいかに生きるかに絞られていました。

道教は、仙人願望がありますが、仙人はこの世の存在です。人間よりは、長寿でありますが、はたして永遠の存在かどうかはわかりません。仙人にも死が訪れることはあるでしょう。

このように、儒教も道教も、現世への関心がほとんどであって、来世を思い描くことはあまりなかったと考えられます。その意味では、中国の死生観は、日本と比べ、現実主義的であるのかもしれません。

画像:孔子
画像出所:中国語スクリプト http://chugokugo-script.net/rekishi/koushi.html

若宮八幡

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神社に若宮とよばれる社は、数多くありますが、柳田圀男さんによりますと、その多くが人を祀っているそうです。

通常、本宮があって、若宮があるのですが、若宮だけが独立して存在する例もあります。柳田圀男さんは、全国の若宮の例を出していますが、不慮の死を遂げ、恨みを持って亡くなった人が多いのには驚きます。まさに、怨霊を祀って、霊異を防ぐことが目的であったように思われます。

柳田圀男さんのユニークなところは、八幡信仰に注目したところです。八幡信仰は、全国に広まりましたが、これを源氏との関係だけでは説明できないとします。つまり、八幡信仰に怨霊統御という信仰があったのでないかと主張されます。そして、実際、多くの若宮が八幡に属しています。非常に興味深い研究ですね。

画像:若宮八幡社
画像出所:若宮八幡社 http://www.wakamiya.or.jp/

呪詛合戦

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『今昔物語集』巻14第40話に、空海さんと修円さんが呪詛合戦をしたというとんでもないお話があります。

空海さんと修円さん(山階寺)は、どちらも名僧で、嵯峨天皇の信任が厚かったそうです。そのため、ライバル関係にあり、仲が険悪になりました。そして、お互い呪詛で相手を殺そうとします。そこで、空海さんは謀をします。弟子に、自分が死んだと風潮させます。それを聞いた修円さんが、安心し油断したところ、空海さんに呪い殺されました。名僧による呪詛合戦とは、穏やかではありません。

『今昔物語集』では、行く末々で、人々の悪行をとどめるために二人がこのようなことを行ったと理由付けをしていますが、はたしてどうなのでしょうか。

画像:空海
画像出所:a-namo http://www.a-namo.com/guest/akisan/kouyasan/kouya/ku_kai.htm

熊谷直実と予告往生

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前回、上品上生宣言で物議をかもした直実さんでしたが、最晩年には、なんと予告往生を宣言します。上品上生宣言といい、予告往生を宣言といい、とにかく目立ちたがり屋なのかもしれません。

予告した日には、往生を見ようと多くの人が集まりました。直実さんは、沐浴をして、念仏を唱えますが、突然、往生の日を延期することを伝えます。集まった人々は、失望して帰って行きましたが、直実さんは、阿弥陀仏のお告げなのでと気にする様子はありません。そして、迎えた予告の日になんと直実さんは亡くなります。それまで、病気はなかったそうですので、まさに奇跡です。はたして、上品上生で往生されたのでしょうか。

画像:熊谷直実
画像出所:熊谷デジタルミュージアム
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/ijin/naozane.htm

熊谷直実と上品上生

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平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した、熊谷直実さんという武士がいました。

直実さんは、『平家物語』や『吾妻鏡』によく取り上げられる逸話の多い人です。晩年、所領の争いで負け、怒って出家します。そして、法然さんの門下に入ります。

この直実さんは、なんと上品上生でない限り往生しないと宣言します。ご存じのように往生には9つのランクがあり、上品上生は最高ランクです。あの源信さんですら下品上生(第7ランク)を目指されたと言われているのに、これまで人を殺めてきた直実さんが、上品上生を目指すとは、とんでもない思い上がりとも考えられます。ただ、直実さんは、経典では人を救えるのは上品上生だけなので、人を救うために上品上生を目指すと主張します。この理由をどのようにとるかは、人によって意見は分かれることでしょうが、法然さんが困ってしまったことは想像できます。

画像:熊谷直実
画像出所:熊谷商工会議所 
https://www.kumagayacci.or.jp/events_information/kumagai_jjiro/

祇園御霊会

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前回、神泉苑御霊会のお話をしましたが、その後御霊会は広がっていきます。その代表の一つが、祇園御霊会です。

869年に、全国レベルで天災が起こり、社会不安が広まったことから、全国の国の数を表す66本の矛を立て、祇園社で薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り、御霊会を執り行ったとされています。また、洛中の稚児が、祇園社の神輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈りました。

この869年の御霊会が、現在の祇園祭の起源だそうです。真夏に行われるのは、下水道の不備から疫病が流行ったのが暑い夏だったからです。現在の特色ある山鉾が使われるようになったのは、室町時代になってからだと言われています。

画像:祇園祭
画像出所:祇園祭山鉾連合会 http://www.gionmatsuri.or.jp/

神泉苑御霊会

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平安時代、京では、疫病がたびたび流行しました。当時、疫病の原因を怨霊による祟りとしてとらえられていました。

そのため、863年に、神泉苑で御霊会が行われることになります。このとき、鎮めるべき御霊とされたのは、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣(または仲成)、橘逸勢、文室宮田麻呂であります。陰陽師を神泉苑に派遣して、六柱の霊座の前に祭壇几を設け、律師慧達を招き、講師として、金光明経一部と般若心経六巻を演説させました。楽の演奏や、稚児の舞、雑技や散楽なども行われました。この日は、神泉苑の四門が開けられ、一般民衆も自由に観ることができたそうです。

御霊会が、陰陽師と僧の共同作業であったことや、金光明経と般若心経が選ばれたことが興味深いです。

画像:神泉苑
画像出所:神泉苑 http://www.shinsenen.org/

東寺

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前回、最澄さんのお話をしましたので、今回は空海さんです。

空海さんは、唐の長安に留学し、最澄さんよりも1年遅れて帰国しました。空海さんの加持祈祷を中心とした密教は、貴族社会に受け入れられていきます。そして、嵯峨天皇の支持を受け、官寺の一つ東寺を与えられます。真言宗のはじまりです。

東寺は、鎮護国家を担う仏法の中心地となり、国家祈禱が行われるようになります。空海さんで、注目すべきことは、綜芸種智院を設立して、庶民教育を行ったことです。そのため、空海さんは、貴族だけではなく、庶民からも信仰されるようになります。

画像:空海
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7

比叡山延暦寺

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桓武天皇が、平安京に遷都するとき、寺院の影響力を排除するために、南都寺院の移転を許しませんでした。そのため、平安京での寺院は、当初、官寺である東寺と西寺だけでした。

そのころ、最澄さんは、比叡山で修行をしていました。この比叡山が鬼門に当たることから、桓武天皇は、これに注目しておられました。そのため、最澄さんは入唐還学生に選ばれ、8-9か月の留学を終え、比叡山で活動を起こします。そして、正式に天台宗が認められます。ただし、僧に戒律を与える受戒の権限は、南都に握られており、その権限が延暦寺に認められたのは、最澄さん没後でした。

その後、様々な盛衰はありますが、延暦寺は大きく発展します。

画像:最澄
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%BE%84

京都清水寺:阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の石碑

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京都で最も人気な観光スポットの一つ清水寺に、阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の石碑があるのをご存じでしょうか。

阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)は、蝦夷の首長と副首長です。801年、征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷討伐に向かい、激戦の末、勝利します。ただ、田村麻呂は阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)を評価しており、東北統治に協力してもらうことを考えていました。田村麻呂は、二人を連れて京へ戻り、朝廷に二人の助命を願います。ところが、朝廷は、二人を河内国で処刑します。

清水寺は、もとは田村麻呂が開いたお寺です。この石碑は、二人の雄の冥福を祈り、有志により建立されたものです。いろいろな歴史がありますね。

画像:阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の石碑
画像出所:中世歴史めぐり 
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera-arutei.htm

愛欲の心を起こした修行僧

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『今昔物語集』に愛欲の心を起こした修行僧の話があります。

数日、夫が山に狩に行き、家に一人でいる妻のもとに、一人の修行僧が訪れました。妻は、お経を読んでもらったお礼に、食事を出し、談笑していると、僧が陰陽道にも通じていることを知ります。妻は、僧に陰陽道の祭りをお願いします。これは、山で行うものなので、二人で山に行きます。祭事が終わった後、僧はその妻に愛欲の心を起こします。妻が抵抗すると、刀を抜いて脅します。ちょうどその時、夫がその近くを通ります。音がするので、鹿だと思い、矢を射ました。なんと、その矢が、その僧を射抜いたのです。因果応報の話です。

それにしても、仏教僧が、陰陽道に通じていたり、帯刀していたことも驚きです。

画像:今昔物語
画像出所:アマゾン