往生講の講義内容

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前回に続き、永観さんの往生講です。

講義内容は、「発菩提心門」、「懺悔業障門」、「随喜善根門」、「念仏往生門」、「讃嘆極楽門」、「因円果満門」、「回向功徳門」の七門になり、この順番に講義が進みます。この中で、一番重要なのが、「念仏往生門」です。「念仏往生門」では、阿弥陀仏の悲願のおかげで、皆が極楽浄土に往生できることを説き、重要なのは一心称念の念仏であることが強調されます。一心称念の念仏を行うことによって、臨終には、聖衆の来迎を受けて極楽浄土に往けることが説かれます。

講義の間には、礼拝や十念などの所作が入ることになり、宗教的な雰囲気が道場に満ちたことでしょう。参加者は、極楽往生を確信できたことだと思われます。

画像:みかえり阿弥陀像
画像出所:永観堂 http://www.eikando.or.jp/mikaeriamida.html

永観さんの往生講

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永観さんは、禅林寺で定期的に「往生講」を行っていました。参加者は、貧民や病気の者であったと言われています。その意味では、現代で言う慈善事業の一つと言えます。

こうした参加者に対して、阿弥陀仏の来迎を説きました。往生講が行われた道場では、西の壁に阿弥陀仏の像が置かれています。往生講が始まる前に、まず、講師と式衆が入場し、その仏像の前に華や香が供えられていきます。こうした供養の所作の後、いよいよ参加者が入場し、阿弥陀仏の仏像に相対して、座っていきます。参加者が座った後、式衆によって再び供養が行われます。公演に先立ち、三宝への帰依の念をささげ、公演の趣旨が読まれます。そして、極楽往生への所願の成就が祈られ、講師による公演に移ります。

次回、この公演の内容についてお話します。

画像:永観堂
画像出所:LINEトラベル
https://www.travel.co.jp/guide/article/35447/

浄土思想の変遷

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浄土思想は、源信さん(942-1017)から法然さん(1133-1212)へといった比叡山天台宗の流れの中で考えられますが、実はもっと幅広い宗派で発展してきました。例えば、東大寺三論宗の永観さん(1033-1111)、真言宗の覚鑁さん(1095-1144)なども、浄土思想への貢献は多大なものがあります。

宗派を超えた浄土思想の発展の背景には、当時、宗派の中で宗派を超えた教義が学ばれていたことや、そうした僧の交流などが行われていたことが要因になっていると思われます。また、当時の民衆が浄土思想を求めていたことも、その理由かもしれません。各宗派は、信徒獲得のためには、浄土思想を取りこむ必要があったかと思います。

余談ですが、覚鑁さんを除く、源信さん、永観さん、法然さん、皆さん長生きですね。70代後半まで生きてられました。当時としては、とんでもないご長寿です。法然さんの後の親鸞さん(1173-1263)は、なんと89歳で亡くなられています。


画像:親鸞聖人
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E

往生語り

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通夜などで、故人を偲ぶ話が出ますが、その中で、故人の仏道への傾倒が語られることがあります。例えば、よくお寺にお参りに行っていたとか、写経をしていたなどです。もちろん、少し大げさに語られますが、誰も否定しません。こうしたお話は、故人が極楽に往生したことをみんなで確かめる、あるいは願う気持ちから来ていると思われます。

さらに、自らの死を予期していたとか、死の間際に家族・友人に突然連絡を取ったりしたことも話されます。これらも、往生したことの一つの証拠として語られます。まさに、往生語りです。日本の古代からの往生伝の延長線上にあるかもしれません。

日本の古き伝統ですが、昨今、こうした伝統が急速に廃れてきているように思います。少し寂しい気持ちがしますのは、私だけでしょうか。

画像:通夜
画像出所:神奈川県斎場
http://www.saijyo-kanagawa.com/manner/tsuya.html

下御霊神社

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京都の下御霊神社では、8人の神様が祀られていますが、その2人は、伊予親王とその母藤原吉子大夫人です。

伊予親王は、桓武天皇の子供で、平城天皇の異母弟になります。平城天皇の治世、朝廷が、藤原宗成が伊予親王に対して謀反を勧めているとの情報を得ます。そのため、この宗成さんは捕らえられ、尋問されます。そこで、宗成さんは、なんと謀反の首謀者が伊予親王であると密告します。その結果、伊予親王とその母は幽閉されました。二人は、身の潔白を主張したが聞き入れられなかったため、毒を飲んで自殺します。その後、伊予親王と藤原吉子大夫人の無実が証明されます。そのため、この二人の怨霊が怖れられ、下御霊神社で祀られているのでしょう。ちなみに、宗成さんは流罪となりますが、その後赦され、復権します。不思議ですね。

画像:下御霊神社
画像出所:下御霊神社 http://shimogoryo.main.jp/

丹生明神・高野明神

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前回、高野山で祀られている丹生明神・高野明神のお話をしました。この二神は、元々、和歌山県の天野というところにある丹生都比売神社に祀られています。この二神が高野山金剛峰寺に取り込まれた背景について、脊古真哉氏が次のように結論付けています。

「開創以前からの在地の神であった丹生都比売神が、最初は仏法に帰依して救済される存在として開創説話の中に取り込まれた。続いて高野山の鎮守神として丹生都比売神の子である高野御子神が創出された。さらに猟師/山人開山説話の要素が付加され、丹生都比売神社・高野御子神・猟師/山人は丹生明神と高野明神の二神に再構成され、高野山の地主神・鎮守神として護法善神と位置付けられるようになる」。

非常に興味深いですね。

参考文献
脊古真哉(2018)「高野山開創説話と丹生明神・高野明神」日本仏教綜合研究第16号、pp.29-52.

画像:丹生明神・高野明神
画像出所:パワースポットNavi
http://www.powerspotnavi.com/wakayama/takanomyojin.htm

高野山の神仏習合

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『今昔物語集』巻11第25話「弘法大師、始めて高野の山に建たる語」に、高野山金剛峰寺建立のお話があります。

弘法大師は、京都を出て、奈良県五條市付近で、犬飼に会います。弘法大師は、この犬飼に、入定するのにふさわしい霊妙な洞窟を探していることを伝えます。犬飼は、その場所知っていると言い、弘法大師を高野山に導きます。次に、弘法大師は、高野山で山人に会います。山人は、弘法大師に広大な土地を寄進します。その後、この山人が丹生明神、犬飼が高野明神であることがわかります。

この二人の明神は、高野山への登山道の下で、鳥居を並べて、この山を守っているそうです。まさに神仏習合ですね。これは、比叡山延暦寺と日吉社との関係に似ています。

画像:高野山金剛峰寺
画像出所:高野山金剛峰寺 http://www.koyasan.or.jp/kongobuji/

信貴山縁起絵巻(中巻)

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前回に続き、『信貴山縁起絵巻』です。

中巻「延喜加持の巻」は、醍醐天皇が大病を患い、様々な治療を行いますが、いっこうに回復しません。そこで、信貴山の命蓮さんの噂を聞きつけ、勅使が彼の下を訪れます。命蓮さんは、護法童子を天皇の下に遣わせます。護法童子は天空を駆けて、天皇のところに行き、天皇は回復します。勅使は、お礼に何か欲しいものはないか命蓮さんに聞きますが、命蓮さんは固辞します。命蓮さんの徳の高さが表されています。

ところで、醍醐天皇は、藤原時平さんとともに、菅原道真さんを失脚させてしまいます。道真さんの死後、怪異が続きます。その結果、道真さんの怨霊を怖れ、病床の下で亡くなります。命蓮さんに、頼らなかったのでしょうか。

画像:信貴山縁起絵巻(中巻)
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7

信貴山縁起絵巻(上巻)

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『信貴山縁起絵巻』は、『源氏物語絵巻』、『鳥獣人物戯画』、『伴大納言絵詞』と並ぶ四大絵巻物の一つです。作者は不明ですが、信貴山の天台僧命蓮のお話で、「山崎長者の巻」、「延喜加持の巻」、「尼公の巻」の3巻からなります。

「山崎長者の巻」では、命蓮さんという修験者が、法力で欲深な長者をこらしめます。命蓮さんは、不思議な鉢を宙に飛ばして、お布施を集めます。山崎の長者は、毎回、この鉢に米を乗せてお布施を送っていましたが、有る時から止めてしまいました。すると、今度は、鉢が米俵の入った倉を持ち上げて飛び去って行きました。慌てた長者は、命蓮さんに謝りますと、命蓮さんは、鉢で中の米を、長者の家に帰します。

『鳥獣人物戯画』では強欲な猿の僧正、『伴大納言絵詞』では淫行や泥棒を行う破戒僧が登場しますが、『信貴山縁起絵巻』は、名僧・修験者のお話ですので、対照的ですね。

画像:信貴山縁起絵巻(上巻)
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7

蛙の阿弥陀仏

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『鳥獣戯画』甲巻第21紙に、猿の僧正が蛙にお経をあげている場面が描かれています。この蛙が阿弥陀仏だとする説があります。

仏は、「手足指縵網相」(しゅそくしまんもうそう)という仏さまのお姿の三十二の特長のひとつとして、手に水かきがあるとされています。そう、蛙も水かきがありますので、阿弥陀仏の役を与えられたのかもしれません。

その後の場面で、猿の僧正が、お布施に囲まれて、ほくそ笑む場面があります。当時、僧正さんのイメージが、皮肉な形で投影されているのかもしれません。また、強欲ということで、猿が配役として選ばれたのでしょう。これも、当時の猿のイメージを表している可能性があります。

画像:『鳥獣戯画』甲巻第21紙
画像出所:タビノト https://tabinoto.jp/column/article/00000108

迎講の時間

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中世の迎講は、どの時間帯で行われていたのでしょうか。

現在の迎講とは、違った時間帯で行われた可能性があります。まず、古来日本には、彼岸の入り日を拝む信仰があると言われています。それに従えば、夕日の沈む西の方、極楽浄土から阿弥陀如来をはじめ聖衆が来迎すると考えられたかもしれません。その場合、迎講は、夕日の中で行われた可能性があります。

また、当時、迎講が旧暦の15日に行われたとする記録が残されています。これは、満月の日です。山の端の月を西方浄土の主尊阿弥陀如来と同一視する信仰がありますので、迎講が、月が出たころに行われた可能性もあります。ただし、この場合、出た月の位置は、西ではなく東になりますが。

画像:山の端の月
画像出所:楽蜂写真俳句集II
https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25041023072

源信さんと迎講

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迎講は、源信さんがなんらか関わって、比叡山横川で始まったとされますが、その内容は、わかりません。現在、當麻寺等で行われている迎講とは違った形であったことは確かです。

比較的その内容を記しているのが、「首楞厳院二十五三昧結縁過去帳」です。この中で、源信さんの弟子の能救さんが、夢を見、その内容を記しています。夢で、能救さんが源信さんの部屋に行くと、先頭に4人の童子、そのあとに大勢の僧が2列になっているところに、源信さんが向かおうとしていました。そして、この情景を、能救さんは、迎講のようだと言います。

この情景が、当時の迎講と考えますと、先頭の童子の存在と2列というところが、現在の迎講に通じるものがありますが、菩薩や奏楽といったものはなかったのかもしれません。

画像:持幡童子
画像出所:なら旅ネット 
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/01north_area/hokkeji/

法会の御供え物

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法会の御供え物は、昔から子供など多くの人々に分けられたそうです。お供え物は、公共のものであるという考えが定着していたのでしょう。また、仏の教えにも則ったものであるかもしれません。

『今昔物語集』巻19第21話「密造した酒の中に蛇がいる話」では、このお供え物を独り占めにする僧とその妻が登場します。二人は、お供えの餅をたくさんもらいながら、誰にもあげず、家にとっておきました。そして、この餅で、酒を密造します。壺に餅をいれて十分な月日が経ちましたので、壺の蓋を開けるとそこには、たくさんの蛇がいました。驚いて、蓋を閉め、僧は、これを遠くの野原に捨てました。たまたま、三人の男がその壺を見つけ、蓋を開けるとお酒でした。彼らは、このお酒を飲み、この話が、僧の耳に入ります。自分たちだけ、酒が蛇に見えたことに、御供え物を勝手に自分のものにした自らの罪深さに反省をします。

やはり、お供え物はみんなで分けるのが、仏の教えなのですね。

画像:お供え物
画像出所:終活ねっと
https://syukatsulabo.jp/obosan/article/8141

上田秋成と宗派

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上田秋成さんは、『雨月物語』で、「青頭巾」というお話を書いています。

このお話では、ある寺の阿闍梨が愛童への愛欲から、人食いの鬼に堕ちます。その地に、禅師快庵が訪れますが、村人の要請で、鬼の阿闍梨の住む寺に行き、彼と会います。快庵は、怪異を恐れず、鬼の阿闍梨に教えを説きます。鬼は、快庵の徳に心打たれ、自らを断罪します。その後、村では、人食いの事件が起こらなくなりました。1年後、快庵は、再び鬼の阿闍梨の住む寺を訪れますが、鬼の阿闍梨は骨と青頭巾だけを残して消えてしまっていました。快庵は、村人の頼みで、その寺の初代住職に就きます。

ここで、問題になりますのは、鬼の阿闍梨が真言宗の僧で、禅師快庵(実在の人物だそうです)が曹洞宗の僧であることです。真言宗の僧が、曹洞宗の僧に教化されることになります。実際、物語では、そのお寺が真言宗から曹洞宗に変わったとされています。ただし、作者秋成さんの仏教観や宗派については、わかっていません。この物語に込められた意図については、謎が多いです。

画像:上田秋成
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E7%A7%8B%E6%88%90

山越迎講

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迎講が来迎図に与えた影響については、これまでも研究されてきました。ただ、来迎図は現存しますが、迎講は文献や後年に描かれた絵図から推測するしかないので、難しい研究対象です。逆に、来迎図から当時の迎講に関するヒントがあるかもしれません。

来迎図の中には、山越来迎図というジャンルがあります。大串純夫氏は、そのうち、川崎家旧蔵の作品と京都国立博物館の作品が、迎講の影響を受けているのではないと指摘します。氏は、さらに、これらの来迎図から山越迎講が行われていたのではないかと推測します。『今昔物語集』巻20第12話「伊吹山三修禅師得天狗迎語」や、巻19第4話「摂津守源満仲出家語」に山越迎講に想像させる話が記されていることを根拠としています。

今後の研究の進展が期待されます。

参考文献
大串純夫(1983)『来迎芸術』法蔵館

画像:山越阿弥陀図(京都国立博物館)
画像出所:文化遺産オンライン 

臨終用心2

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前回に続き、『臨終用心』をご紹介します。前回お話した以外に、おもしろいポイントを挙げさせていただきます。

まず、病人の耳や口へ声高に念仏を吹き入れることを禁止しています。また、病人の前で、泣くこと、語りかけること、家の財産について語ること、肉親など愛する者を近づけること、憎んでいる者と会わせること、病人の気持ちにさからうことを注意しています。

また、臨終前だけでなく、臨終後についても記されています。死後、死骸を頭北面西にし、手足を折り曲げるなどの行為は必要ないとしています。手足を折り曲げるのは、日本古来の風習かもしれません。死骸の入棺は、2日経過したあと、行うべきだと注意しています。また、身体に温かいところがある場合は、それ以上待つ必要があるとしています。3-5日後に蘇生する人の例があるからです。

画像:釈迦涅槃図
画像出所:本間美術館
https://www.homma-museum.or.jp/column/page/57/

臨終用心

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『臨終用心』は、可円さん選集で、1780年に発行されています。

臨終行儀が盛んであった平安・鎌倉時代から、だいぶ時代が下がります。そのため、内容は、宗教的・儀式的なものから、実務的なものに変化しています。また、長い間の臨終の際の経験が積みあがった結果かもしれません。

例えば、第一に、「看病人は病人の心にそむいてはならぬこと」が記されています。その中で、病人がからだによくないものを欲する場合には、「ない」と言うのではなく、説得するよう説かれています。また、病人が看病人に悪口を言っても、口答えや無視することを戒めています。さらに、病気がどれほど長くても、退屈して、病人がはやく死ねばいいなどと思ってはいけないことも注意しています。現在のターミナルケアにも通じるものがあるように思います。

画像:阿弥陀聖衆来迎図
画像出所:長野市文化財データベース
http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1141.html

臨終正念訣2

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前回に続き、『臨終正念訣』の4つの問答です。

第2の問いは、医療と薬です。答えは、医療・薬は病気には効くが、寿命には利かないというものです。ただし、病人が望めば、医療・薬を否定してはいません。これは、当時の医療レベルを考慮する必要があるでしょう。

第3の問いは、神々に祈ることです。答えは、人の寿命は生まれた時に決まっているので、神々に祈っても無駄というものです。この場合は、中国の神々ですので、どのような性格の神々なのかは検討が必要でしょう。

第4は、普段念仏をしていない人でも、浄土往生の法を用いることができるかという問いです。答えは、僧侶であろうと一般の人であろうと念仏をしたことがなくても、これを用いて皆が浄土往生できることは絶対に間違いがないというものです。これは、心強いですね。

画像:阿弥陀三尊来迎図
画像出所:福井の文化財
http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/kaiga/28kenpontyakusyoku-amidasannzonnraigouzu.html

臨終正念訣

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中国の臨終行儀を扱った経典で、最も古いものの一つとして、『臨終正念訣』が挙げられます。日本の臨終行儀に大きな影響を与えました。以前、善導さん(613-681年)が作者とされていましたが、現在では作者がわからないというのが通説になっています。知帰子という人が、臨終行儀について浄業和尚という人に4つの問いをし、和尚がそれに答えるという形式をとっています。今回は、第1の問答について、ご紹介します。

第1の問いは、ずばり極楽浄土への道です。答えは、死を恐れ、生きることに執着することを止めるということです。常に、自分の身には様々な悪業がまとわりついていることを自覚する事を説いています。

さらに、看病人の心得も記されています。看病人は、死を迎えようとしている人に、雑事や安っぽい慰めなどを話さないよう求められています。また、病人が死を迎えるときには、看病人は、ただ阿弥陀仏を想い、念仏を続けることを説いています。

画像:絹本著色仏涅槃図
画像出所:ホットライン教育ひろしま
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/202020510.html

近世の宿縁

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前回、中世での宿縁について、お話しましたが、今回は、近世での変化について採り上げます。

『雨月物語』に「貧福論」というお話があり、そこでお金の精霊が、貧福についての持論を展開します。精霊は、現在裕福なのは前世の善行のおかげであり、貧しいのは全盛の行いが悪かったとする、お金に関する宿縁を非難します。「えせ仏法」とまで、言い切ります。

前世で、自分を修め、慈悲の心で人々と交際した人が、その善行で、現世ではお金持ちの家に生まれて、財力にまかせて他人に威張り、たわごとを言い、野蛮な心を見せるのは、どんな報いによるものかと問います。そして、仏菩薩は、名誉や利得をお嫌いになるではないかと主張します。お金の精霊のこの主張は、道理にかなっているように思えます。時代と共に、宿縁の考え方も変わっていくのでしょう。

画像:雨月物語
画像出所:アマゾン

宿縁

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中世の説話によく出てくる考えが、宿縁です。現世の状況が、前世からの因縁によって説明されるという考えです。まさに、仏教の輪廻転生から来ています。

現在、努力もしないのに生まれつき幸福な人は、前世で善行を積んでいたと考えられました。一方、どんなに努力しても恵まれない人や、とんでもない不幸に会う人は、前世で悪いことをしたととらえられます。この宿縁の考えに立ちますと、極端な現実肯定がとられ、世の中の矛盾について疑問を持たなくなります。例えば、身分などは肯定されてしまいます。その意味では、宿縁は危険性を持っています。

ただ、宿縁を否定してしまいますと、良いことをしている人が不幸になったり、悪いことをしている人が逆に幸福な人生を送っていることに説明ができなくなり、人生を生きにくいものにしてしまいします。宿縁では、たとえ良いことをしても報われなくても、より良い来世が待っていることになります。したがって、宿縁は、危険な考えではありますが、必要なものとも考えられます。

画像:宿縁寺
画像出所:西尾観光 http://nishiokanko.com/goshuin/goshuin_003

「浦島太郎」の別バージョン

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「浦島太郎」は、日本人の他界観を考える上で、よく取り上げられるテーマです。

香川県に口承で伝わった「浦島太郎」は、私達が馴染んだ「浦島太郎」と若干違っています。話の筋は、ほぼ同じですが、細部とラストが違っています。浦島太郎が竜宮城に行くきっかけは、いじめられた亀を助けたのではなく、亀を釣ってしまい、それを助けたことからです。竜宮城での乙姫と素晴らしい日々、現実世界に戻ると長い時が流れており、知っている人がいなくなってしまい、玉手箱を開けるとおじいさんになってしまうことは同じです。

違いは、ここで浦島太郎は鶴に変身します。また、乙姫は、浦島太郎を見に来るため、本来の姿である亀になって浜に上がってきます。そして、鶴と亀が舞う伊勢音頭が、この話から来ていると締めくくられます。乙姫は、亀だったのですね。

画像:浦島太郎
画像出所:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E